石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

晩夏光-草田男・茂吉・光太郎-

    晩夏光バットの函に詩を誌す    中村草田男

バットはゴールデンバット(金色の蝙蝠)の略。日本の最も大衆的な紙巻煙草だった。愛煙家だった草田男は、紫煙を吐く姿が泰西の哲人的風貌をかもし、一幅の絵となった。年輪の刻まれた考える人の内面的な深さが、人生の達人を思わせた。
「晩夏光」は草田男の造語。草田男の愛誦した斎藤茂吉の歌、

  ふるさとの蔵の白かべに鳴きそめし蝉も身に沁む晩夏のひかり
                       (『あらたま』大正5年作) 

から創案した季語だが、語呂のよさからか、ひところ流行語となった。

草田男が、初めて茂吉を訪ねたのは昭和12年12月。

   暮の富士歌の茂吉に会ひに行く   草田男

草田男は、前年2月、前後10回に及ぶ見合いののち、12歳下の福田直子と結婚。
初対面の茂吉から、「君は、永井ふさ子のことを知っているね」ときかれた。
草田男は10回の見合いの最後のころに故郷松山でふさ子と会い、その「リッチな」雰囲気にこころを動かされたが、これを断っている。
茂吉の死後、永井ふさ子は茂吉との恋の往復書簡を公表した(「小説中央公論」昭和38年7月~11月号)。これは、草田男の茂吉崇拝を打ち砕くものだった。

さらに敗戦後の一首、

  あかがねの色になりたるはげあたまかくの如くにいきのこりけり 茂吉

文学者の戦争責任問題の論議が盛んだったころ、自らを道化に見たてたようなこの歌について、草田男は嫌悪感を隠さなかった。

     12月30日、はじめて「火の鳥」一本を携へて、
      同書に題簽を賜はりし高村光太郎先生を訪ふ
  
   街の霧光太郎行に逆流れ   草田男  (『萬緑』昭和14年作)

かつて親炙した茂吉と光太郎だったが、晩年にいたって草田男の評価は分かれた。

8月5日は草田男忌。傍題の「炎熱忌」には勇気と祝祭の俳人・草田男を賛える趣がある。

   炎熱や勝利の如き地の明るさ   草田男(昭和22年作)

勤務先の成蹊学園の寮での作。敗戦直後、勝利を口にのぼせる可能性が絶無である現状が、かえって作者をしてその語を叫ばしめたのだといえる、と自解している。

草田男と妻直子の墓は、東京都五日市カトリック霊園にある。巨大な花崗岩が、流麗にデザインされ彫り深く彫刻された寝墓である。俳句は神に通じる、という草田男のつよい意志が感じられる墓だ。


   耶蘇名夫妻の寝墓をかすめ時鳥    赤榴子


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                   あきる野市伊奈

Category : 中村草田男
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