石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

今月の一句 <五月>


樟若葉即非の大字吹き通す    目崎 徳衛


 目崎徳衛著『志城柏句稿』(平18・12、角川書店)所収。
 「長崎崇福寺」と前書がある。
 崇福寺には、長い石段の上に、天を覆うばかりの大樟が聳えたつ。石段の途中に、山本健吉の文学碑「母郷行」が立っている。
 即非(そくひ)は、明の僧(1616~1671)。隠元・木庵とともに、黄檗(おうばく)三僧と称される。

 目崎徳衛に初めて会ったのは、彼が虎の門の文部省で、教科書調査官をしているときだった。「俳句」編集時代に、同郷小千谷出身の詩人・西脇順三郎との対談「漂泊と俳諧」を依頼した。西脇作詞の県立小千谷高等学校校歌の一節に「信濃川静かに流れよ、わが歌のつくるまで」とある。スペンサーの「テムズ川静かに流れよ」のパロディーだといい、そこに俳があるという。対談の西脇発言に「賓礼」ということばがあった。俳句もまた他者に礼をつくす「賓礼」の文学である。「短歌」編集時代に、「百人一首の作者たち」を依頼し、のちに単行本として刊行した。
 西行研究の第一人者として、『西行の思想史的研究』により第一回角川源義賞を受賞。文学博士。聖心女子大学名誉教授。
 昭和28年2月、小千谷市にて「花守」を創刊。「芸文の華を鄙の一隅で守り育てたい」というのが目標だった。

 筆まめな目崎からもらった書翰が手もとに遺っている。
 「ようやく人心地がついて来まして、春めいてきた雑木林の中を歩いたりしています。
   大寒風林に入れば遊べるよ
 とりあえずお礼迄。  草々
  先日のお電話、感銘薄れません。只今、龍太さんから懇篤な返翰とどきました」。
 追伸の意味は、「やまなし文学賞 研究・評論部門」を、大著『南城三餘集私抄』が受賞した折のお祝いのこと。
藍沢南城については、「雪国の無名詩人―越後に私塾開いた藍沢南城、民衆の労苦を平明にうたう」という文章を昭和63年11月4日付朝日新聞文化欄に書いている。

      南篠村
   百戸渓村皆業農   百戸の渓村 皆農を業とす
   園園桑柘緑叢叢   園園の桑柘(そうしや)緑叢叢
   山深薪木資無乏   山深くして薪木の資乏しきことなく
   海近魚塩利亦通   海近くして魚塩の利も亦通ず
                        (以下略)

南城村は、南城の詩にとって常設の舞台装置であり、この一編は生涯の序詩の趣きがある、という。

 「先般は長時間、話を聞いていただき、いつも乍らの御芳心深謝のほかありません。今さらどうこう言っても始まりませんので、当分心の落着き所を求めたいと思っています」。
温和な表情に似ず、ときに激越なことも書いてあった。

 以下、『志城柏句稿』より。
       西脇詩人の賜ひし表紙絵に寄す
     あなたなる遊行柳も芽吹きけり
       借問す
     焚火のみしてぞ朽ちなばいかにぞや
       西垣脩氏を悼む
     魂祭ひとりの寝酒手向けせむ
     しらたまの白湯飲むべかり今朝の秋
     草屋根にあたる日はあり宗祇の忌
     石鹼買ひその香むさぼり春の雪
       白河の関
     吹き降りの老杉に倚り西行忌
       山本健吉氏を悼む
     み吉野の落花に乗りてゆきたまふ
     たどりつきし上人の齢西行忌
       竹内理三博士易簀
     春風に蓬髪そよがせたまひしが

 句は、おおむね平明。「俳句は心の糧として閑暇に読み捨て、通じて風光を楽しむのみ」が作句信条。昭和21年5月、沢木欣一創刊の「風」に参加以来、特定の師をもたず、西行研究その他学問上の業績も、みな俳句と別のものではない、という。卓れた歴史学者である碩学の余技ではない、という自負が感じられる。


目崎徳衛を憶ふ      
碩学の述志省筆樟の花  赤榴子
   



目崎徳衛(左)西脇順三郎対談(「俳句」昭和50年8月号)

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Category : 五月
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