石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

市井暦日のうた —安住敦—

 安住敦(あずみあつし)は、懐かしい俳人である。いつも柔和な表情をくずさず、だれにも心くばりを欠かさない。自らに厳しく、他者に寛容だった。先憂後楽の人なのである。
 依頼原稿はきれいに清書され、期日に遅れたことはない。『図説俳句大歳時記』『現代俳句大系』の編集委員として、親身の協力を惜しまず、もっとも頼みがいのあるひとだった。
 「この句集は、畏友角川源義氏の勧めによって成り、一切を角川書店鈴木豊一君に委ねた」。敦句集『午前午後』(昭47・3、角川書店)のあとがきの一節だ。句集出版の3か月後、第6回蛇笏賞を受賞。敦64歳。会社勤めを辞めて5年余、「春燈」主宰として、俳句一筋の生活をおくっていた。
 敦はこれよりさき、角川文庫版の日野草城句集』(昭27)『久保田万太郎句集』(昭29)を編集し、解説を書いている。「この、背き去つた弟子によつて編せられた句集を、先生は果して如何な眼を以て見られるであらうか」とは、草城句集解説末尾の一節。草城を捨てて万太郎に走った安住敦のこころの負いめを、率直に述懐したものだ。

 安住敦の俳句を初めて読んだのは、20代初め、筑摩書房版『現代俳句集』(『現代日本文学全集』91、昭32)だった。敦は新興俳句系の俳人として、渡辺白泉、細谷源二、富沢赤黄男、三橋鷹女らとともに配列されている。『貧しき饗宴』『母子園』『古暦』を収録。

     くちすへばほほづきありぬあはれあはれ   敦(『貧しき饗宴』)
     霧に擦りしマッチを白き手が囲む
     ふらんす映画の終末のごとき別れとつぶやく
     苺啖つて別れたりしがまた逢はず
     秋かぜの妻の木馬と子の木馬     (『母子園』)
     冬の坂母子声あげて駈けてくる
     春雪や兄妹部屋を異にして
     母子かなし蜜柑の花のにほふゆゑ
       八月十五日 終戦
     てんと虫一兵われの死なざりし    (『古暦』) 
     雁啼くやひとつ机に兄いもと
       田園調布
     しぐるるや駅に西口東口
     啄木忌いくたび職を替へてもや
     ランプ売るひとつランプを霧にともし     
     ある朝の鵙ききしより日々の鵙
     鉦叩たたきて孤独地獄かな
     来し方に悔なき青を踏みにけり

 『古暦』は9年間の作品135句を厳選収録。ことごとく絶唱である。人口に膾炙した「しぐるるや」について、石川桂郎は逢引きの句として含蓄のある鑑賞をした。この桂郎の鑑賞によって、敦もあらためて愛着の句となったという。田園調布駅はいまは地下にあり、地上に駅舎の一部が再現されている。「啄木忌」の句は、原句が「いくたび職を替へても貧」だったものを、万太郎が「貧」を削って「や」に替えたもの。まさに会心の斧正だった。

 『古暦』につづく『歴日抄』(昭40、牧羊社)は、昭和29年より39年までの216句を収録。これまた厳選である。

     長き冬越せよと芭蕉囲ひけり     敦(『歴日抄』)
     鳥帰るいづこの空もさびしからむに
       五月六日、久保田先生急逝
     こでまりの愁ふる雨となりにけり
       今は・・・
     秋風や褒めても叱つても呉れず
     ある晴れた日に乙鳥(つばくらめ)かへりけり
     古暦焚いてあとかたなかりけり

 「鳥帰る」の句について、「『鳥帰る』は紛れもなく俳句の季語であるけれど、それ以下はどうやら下手な短歌をやっていた当時の調子になってしまったようで、この点はよく指摘されるところだが、作者自身には棄て難い一句である」と書いている(『自選自解安住敦句集』昭54、白凰社)。「ある晴れた日に」は、プッチーニの歌劇から借りたもの。いわば、ただそれだけのことだが、それだけのことという句が好きだ、と敦はいう。

 『午前午後』の後記には、「集中、身辺日常の句を繰り返していることはいつもと同じである」とある。卑俗とただごとすれすれのところで、抒情的愛誦句となっている。これは、天性の資質によるものだ。
     籐椅子を愛し身辺の句を愛す   敦(『午前午後』)
は、境涯生活派宣言の一句として忘れがたい。

 よく指摘される牡丹の句の多作も、その芽のときから花の盛り、そして凋落の姿、枯れて刈られるまで、牡丹のこころになりきって詠む。敦は、牡丹そのものを詠むのではなく、牡丹の花を愛する自分自身を詠っているのだ、という。牡丹への相聞である。

     恋文のごとく書き溜め牡丹の句    敦(『午前午後』)
       五月六日、久保田先生の祥月命日なり。本郷喜福寺に修忌。
       たまたま経文の中にこの語あり、帰り来りて心に残る 
     夕牡丹「今生我身二つ無し」 
     牡丹の芽すでに紅糸をほぐしたる
     蕊見せてよりの牡丹のいよよ婉
     例えばかの佐助のごとく牡丹に侍す
     牡丹散つて四辺華やぐものを断つ

 『午前午後』に収められた牡丹の句は49句。その後、『柿の木坂雑唱』(昭56・6、永田書房)『柿の木坂雑唱以後』(平2・7、平凡社)でも、牡丹への執着は衰えない。現代俳句のなかでは希有な例である。

       長谷寺(9句のうち)
     ひろごりて頻波なせる牡丹かな   敦(『柿の木坂雑唱』)
     牡丹開くときの衣擦聞かむとす    (『柿の木坂雑唱以後』) 

 安住敦の律儀さを示すひとつに、木下夕爾(1914〜1965)との交友がある。

       六月四日、木下夕爾逝く。七日、追悼式あり(5句のうち)
     友の訃に馳すや白鷺も同じ向     敦(『午前午後』)
       福山にて(5句のうち)
     夕爾の花菜夕爾の雲雀そこに夕爾
 
 夕爾の福山へは、空路岡山へ、そこから山陽線へ乗り継ぐ。その夜泊まった駅前の小林旅館は、井伏鱒二の定宿だった。
     夕爾の忌歳々迎へわれら老ゆ   敦(『柿の木坂雑唱以後』)

 敦の編集した『定本木下夕爾句集』(昭41、牧羊社)は、背表紙が革装の瀟洒なつくりで、編者の熱意が凝縮していた。

 『柿の木坂雑唱』の柿の木坂は、太平洋戦争終戦まぎわから他界するまで、喜怒哀楽を刻んだ土地。近くに碑文谷公園があり、森には樗の木があって、初夏には薄紫の花が甘い芳香をはなつ。樗の花を詠むことは、晩年の大きな喜びとなる。池には、鴨が渡ってくる。鴨と鳰も、晩年にいたって感興の対象となった。

     花樗微塵と舞へり月の下   敦(『柿の木坂雑唱以後』)
     去るものは日々に疎しよ鴨も人も  (  〃  )

 安住敦の俳句を読むたのしみは、十七字の私小説として、作者の人となりや作品の背景を知るにつれて、ふかまってゆくところにある。一見、不機嫌そうな印象を与える句にも、作者の善意とひたむきさが感じられ、こころ癒やされるおもいがする。
 角川源義、石川桂郎、富安風生、大野林火らの追悼句にも真情がこもり、「あとや先き」という言葉が胸にうかぶ。
 昭和63年7月8日、逝去。享年81。21日、祐天寺にて春燈葬。「俳句研究」63年9月号の編集後記につぎのように書いた。
 「本号を校正しながら、たまたま三か所で『清貧』の文字を見かけた。清貧で思いだすのは、安住敦氏の句集『貧しき饗宴』だ。あるいは戦後の<職替へてみても貧しや冬の蠅>。その安住氏の葬儀が七月二十一日、東京目黒の名刹・祐天寺で行われた。安住氏の俳句の弟子でもある本多正雄住職の声涙ともに下る引導にいたく胸うたれた」。
 号泣しながら引導を渡す姿は、あとにもさきにも見たことがない。本多住職(俳号游子)のことは、<瞑りて冬の雲雀を聴きゐしか 敦>(昭29)の自解のなかでふれられている。昭和29年初冬、敦は利根川へ吟行に行く。そのときの取手の「春燈」の仲間のひとりに、本願寺住職本多游子がいた。葬儀ので高僧の切情、師弟のきずなの深さをまのあたりにする思いだった。

 東横線学芸大学を降りると、碑文谷、柿の木坂という安住敦ゆかりの地名が隣りあっている。碑文谷公園弁天池のほとりの木のベンチに腰かける黒いオーバー姿の敦。柿の木坂春燈発行所と書かれた大きな郵便受のある安住邸の玄関。整頓された広い座敷で、フランス高級ブランデーの栓をぬいてくれる。座談のよどむことはない。
 柿の木坂の街並の風景は一変したが、その地名は現代の俳枕として、市井暦日のうたとともに、いきつづけるだろう。

           

   <鴨を見てをり夫婦とは親子とは 敦>に和す
初鴨に水あたたかき夕べかな   赤榴子




Category : 安住敦
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