石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

戦後の空から夢明りへ   —原子 公平—

 松葉杖をつき、人ごみをかきわけながら、原子公平はなつかしげに近づいてくる。
 「あなたは多くの俳人に会っているのですから、そのことをいつか書いておいてください」
 満面の笑みに善意があふれ、相手に安堵感をいだかせる。いつ会っても、その印象はかわらない。
 原子の第一句集『浚渫船』(昭30・8、風発行所)をはじめて読んだのは、昭和47年、『現代俳句大系』第10巻を編集したときだった。この巻には、森澄雄『雪櫟』、金子兜太『少年』、飯田龍太『百戸の谿』、佐藤鬼房『夜の崖』、石原八束『秋風琴』、野澤節子『未明音』など、戦後俳句の収穫期を示す錚々たる句集19冊が収められている。
 浚渫船という復興期にふさわしい句集名も新鮮な感じがした。盟友金子兜太の深い洞察に充ちた力づよい序文もよかった。
 東大仏文科を繰りあげ卒業した昭和19年9月の作に、次の一句がある。

       卒業送別、鈴木信太郎教授宅によりて
     すゐつちよの鳴く葡萄酒の盃を乾す    原子 公平 

 大塚坂下町の鈴木教授宅に立ち寄り、とっておきのフランスワインをご馳走になる。辞去して坂上の市電の停留所まで歩こうとすると、渡辺一夫教授が、松葉杖をうしろ手に持ち、その上に原子をおんぶして、坂をのぼってゆく。ヒューマニスト渡辺の、卒業する原子へのはなむけだった。
 大塚坂下町の鈴木信太郎邸には、私も角川源義に同行して訪れたことがある。菊倍判という大型の『図説俳句大歳時記』の造本について教示を得るためだった。フランス製の大型本を次々と机上に並べ、本づくりの方法を懇切に指導してくれた。

 『浚渫船』の巻頭扉には、「中村草田男先生に」という献辞があり、目次うらの中央にマラルメの詩の一行が引かれている。

     La chair est triste,hélas!……

 「肉体は悲し、ああ!」。原子によれば、自分の体内にわだかまる「身障感」を詩的に昇華させるための引用だった、という。
 小児麻痺のため、小学生のころから松葉杖を使い、身体障害者として、高校受験にも差別をうけるなど、多くの辛酸をなめた原子の苦悩が、柔和な表情の背後にはあったのだった。

 「風」創刊号(昭21・5)に、原子の自選50句「餅の力」が載っている。

     鶺鴒の尾をふりゐしが霧に消ゆ     原子案山子
     殺したる蛇の長さを量りをり
     元日の夜の旗なびく音すなり
     七夕の折鶴生るる手くらがり
     神無月たかくオリオン矩を正す
     思慕久し薔薇の花縁(べり)日に焦げて
     友へ文白ら息こめて封をなす
     祖父母なし白湯さへ甘き冬の朝
     戦争と平和と暮の餅すこし
     餅の力真夜恐るべき恋の力

 これらのなかの何句かは、のちの『浚渫船』に再録されることになる。
「作品のあとに」として付された文章で、「私は、いつか晩年の数年間にでも、絶対詩歌と言ひたいやうなもの(、、)を試み度く思つてゐる」と、意欲的な願望を記している。
 「餅の力」から5か月後の「風」21年9月号に、原子の短編小説「符牒」が発表された。
 「三月十七日のことだつた。雪は午までに止んだが、暗澹とした雲はなかなか去らなかつた」。
 「頃日、自分の心境は大変悪く傾いてきて、何事も巧く運ばなかつた。じつとしてゐると、いらいらしてくる」。
 原子自身と思われる「自分」は、母とふたりのアパートぐらし。夕食の半ばに、突然、町会事務所の者が、原っぱで人が生き埋めになっているから、若い者は至急、救援にくるようにと告げる。
 食事を終えた「自分」は、お茶ものまずに、オーバーをひっかけて事故現場へと急ぐ。防空壕の陥落だった。焚木拾いのため、支えの丸太や壁板を剥いでいるうちに、天井の土が崩落して、男がひとり生き埋めになったのだ。
 「屍体は筵の上に置かれた。警官が、軍手をはめた手で、顔にくつついてゐる泥やら、鼻の穴や、半ば開いた口の中に一杯つまつてゐる泥を、無雑作に取り払ひ、上着の釦を外し、シヤツを裂いて、胸を出してから、屍体に馬乗りになり、掛声をかけながら人工呼吸をやつた。然し、それは無駄であつた」。
 疲れ切って部屋へ戻ると、卓上は片付けられ、なみなみと注がれた茶碗が一つ残されている。なつかしい気持で、塵のうかんだ冷い茶を一息に呑む。
 「既に、弁解の余地はなかつた。
 口に残つた茶柱を噛みしめながら、自分は手紙を書かうと決心した」。
 この謎めいた文章で、小説は終る。
 手紙の相手は、「自分」が思いを寄せる若い女らしいと想像させて、曖昧のまま省筆されている。巧みな文学技法だ。2段組み5頁。敗戦直後の焦土の渾沌のなかから生まれた、記念碑的な作品だった。転換期の青年が直面する焦燥と苦悩、放恣と自律とが、うわすべりすることなく、堅確に描かれていた。

 『浚渫船』は、昭和14年(20歳)より30 年(36歳)までの554句を収録。

       空襲(十句のうち)
     椋鳥(むく)どもは潜み戦さは頭上に満つ   原子 公平(『浚渫船』)
     爆音は夕星(づつ)を撤き冬富士へ
     火の街や連翹の黄に暁けを待つ
     焼跡に赤まま咲けり爛漫と
     戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ
     甘酒啜る一時代をば過去となし
     冬真ひる線路修理の火花咲く
     並木新緑花道めきて別れけり
       長姉入院、百日にして死す
     百日紅の百日病は死に至る
     陽炎の彼方ビル建つ彼方のこと
       十五年間住みなれしアパートを立ちのく
     新宅の穢なき壁にぞ春を待つ
       四月二十八日新婚旅行
     かの遠山今そが許のこの春の夜
     残暑の雲浚渫船に人見えず
     蚊帳の果変らぬ日本が吾(あ)を包む
     大浴場に浮かす秋思の首一つ
       十二月二十二日松川事件の二審判決あり(四句のうち)
     死罪と決まる柚子湯昼から灯が点いて
       草田男先生に従つて山廬を訪ふ(三句のうち)
     山廬にほのと丑三つ刻(どき)の春障子
       那須行
     消ぬがに西日月かげとなる那須野かな
     やや沖に孤礁秋思の水柱
     二歳児に虹見せよりよき明日祈る

 代表句「戦後の空へ」について、後年、金子兜太は次のように書いている。
 「松葉杖をついた原子が、夏の日を浴びて、アパートの近所の被爆の大木を見上げている様子がすぐ浮かびます。その死木と化した大木に重なるように巻きついた蔦の青葉が、生命(いのち)の旺盛な蘇りを明示している。原子は元気づけられ、自分の生(せい)を確実なものたらしめようとおもっている。たぶん、『符牒』を書いたあとの句だろう、などと私は勝手に想像していました」(『わが戦後俳句史』1985・12、岩波新書)。

 昭和27年4月(32歳)、10歳下の飯田芳江と結婚。式はなし。神保町「江戸善」の2階で無礼講の宴。楸邨と草田男が仲人のごとく臨席した。
 草田男第4句集『来し方行方』(昭22・12、自文堂)の自跋の最後に次の一節がある。
 「本書が出版の運びとなつたのは、たゞ一途に、原子公平・菊池卓夫の二氏の御厚意と御助力とによる。微力ながら、今日以後も純粋に真摯に俳句道に精進しつづけることによつて、俳壇的委細を超越しての両氏の純情に酬い、御期待にこたえたいと希ふ者である」。
 人間草田男の直情が吐露された希有な謝辞である。
 私は20代のころ、この句集を入手、本文中に挿入されたデューラーの銅版画「騎士と死と悪魔」を初めて知った。以後、機会あるごとに、その自画像や宗教画を観てきた。ドイツのニュルンベルクの小さな広場で、絵筆をもった等身大の銅像を仰ぎみたときの感動が忘れられない。原子と草田男につらなる余慶だった。

 昭和37年、原子は「萬緑」同人を除名される。草田男との再会は、昭和53年3月、銀座「金鶏会館」での橋本夢道を偲ぶ会でのこと。4か月前に急死した直子夫人へのお悔やみをのべると、
 「マリアさんはお元気ですか」
と草田男がきく。原子と草田男とは、夢道追悼はそっちのけにして、思い出を語りあった。過去のことは恕されていると感じ、原子はよろこんだ。

     枯野華やぐ失脚の椅子捨つるべし     公 平(『良酔』)
     青空も雲と流れて花辛夷
       赤城山中にてひそかに結社を決意す
     人を信じて組む谷ぐるみ青胡桃
     雪に埋めん酒は涙の負の青春
     晩婚の銀婚となる花曇り
     良く酔えば花の夕べは死すとも可
       西垣脩死去(二句のうち)
     音のみの祭りや友の死に籠る
       三谷昭死去
     浅き夢見し冬あたたかに死者は在り
     初富士を盛り塩と見し大志かな     (『酔歌』)
     妻と落ち合う酒屋の前の夕ざくら
     泉のおこすさざなみ草田男遠し近し  
     芒群ら立ち効き足一本の具足
     十三夜妻の軍手の夜干し見ゆ
     福寿草福寿の母は黄泉にあり
     波瀾の人生いま葉牡丹につつがなし
       楸邨逝く(三句のうち)
     紫陽花の変あざやかに楸邨逝く     (『夢明り』)
     枇杷の小花にその日暮しの幸を謝す
     一客一来茅屋なれども薔薇に棲む
     仰ぐように泉見下ろす草田男忌
     湖底に沈めよ核の匂いの香水など
     弱肉包む甚平にして世を叱る
     妙に香ぐわし失楽園にもある花野
     オリオンへ白鳥浮き寝の夢明り
     竹煮草分け入り赤城の忠治の湯に
       石原八束逝く(三句のうち)
     緑酒で悼まん八束は天に夜の秋
     美酒汲めば雨も良夜の音すなり
       高島茂を悼み「ボルガ」を懐かしむ
     虹より濃きえにしをボルガの川筋に
     向日葵一列野の立て髪となる別れ
     死人(しびと)花に傘寿いささか火群(ほむら)立つ
     てっちり啜り不具を福とし傘寿越す
       注「ふぐ」は九州では「フク」と言う。

 俳句は、唱和と談笑の文学である。あまいことをいうようだが、敗戦の困窮のなか、友情が俳句の支えとなり、俳人を成長させた。原子公平は、草田男、楸邨、波郷を敬愛し、沢木欣一、金子兜太、石原八束を刎頸の友として、右顧左眄することなく、おのれの俳道を貫いた。『夢明り』のあとがきに、「曲りなりにも終着点に辿りついたようである」という。そこは、芭蕉の枯野であった、とも。
 平成16年(2004)7月18日、胃癌のため死去。84歳10か月。21日、三鷹市上連雀・法専寺にて葬儀告別式。香煙のなか、莞爾たる笑顔を想い描き、一会のえにしをかみしめる。


古武士めくひとの面差し秋の声     赤榴子


harako.jpg
原子公平(平成2年1月19日、東村山市栄町)
「俳句研究」平成2年3月号口絵より


Category : 原子公平
Posted by sekiryusha on  | 0 comments  0 trackback

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

trackbackURL:http://sekiryusha.blog28.fc2.com/tb.php/54-a43d17c8
該当の記事は見つかりませんでした。