石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

銀河をわたるお多福豆−加藤楸邨–

    天寿いま鱒二楸邨梅雨長し
という句をつくったことがある。訃報はいつも、突然にくる。井伏鱒二、平成5年(1993)7月10日、95歳。加藤楸邨、同年同月3 日、88歳。楸邨の本葬は、世田谷区奥沢の九品仏浄真寺で行われた。大井町駅で一緒になった能村登四郎が、
「私は、ほんとうは波郷さんよりも楸邨さんのほうが好きだった。『寒雷』の都塵抄や『野哭』の流離抄は、夢中で読みました」
と懐かしがっていたことを思いだす。葬儀の司会は、川崎展宏。楸邨敬慕の真情が一語一語にこもり、会場は厳粛な空気につつまれた。
 その浄真寺に楸邨の、
    しづかなる力満ちゆき螇蚸とぶ   加藤 楸邨
の句碑が建立されたのは、7回忌にあたる平成11年(1999)。螇蚸の読みについて、展宏が楸邨にじかに確かめ、「はたはた」と読みたいという答えを得て、ここに「螇蚸」の読みが治定したことを、書いたことがある。
 平成22年10月24日、「寒雷」創刊800号を記念して、大册の『加藤楸邨全句集』が寒雷俳句会より刊行された。総頁892頁。頒価8000円。巻末に詳細な初句索引と季語索引(ともに50音順)とを付す。
「螇蚸(はたはた)」の項をみると、次の21句が載っている。

    螇蚸(はたはた)のあがりて関のさまもなし (『寒雷』)
    螇蚸や我の見惚るる吾子の肩       (『穂高』)
    螇蚸を海に追ひ入れ帰りし日       (  〃  )
    螇蚸や今荊棘に没日満つ         (『野哭』)
    しづかなる力満ちゆき螇蚸とぶ      (『山脈』)
    跳ぶ前の螇蚸羨し光放つ       (『まぼろしの鹿』)
    鼻蹴つてはたはた谷へ忿怒仏       (『吹越』)
    はたはたを深追ひすれば入日たつ     (  〃  )
    はたはたの方にけぶれり一里塚      (  〃  )
    はたはたに逃げられし犬口ひらく     (  〃  )
    螇蚸跳ぶむかし戦士の貌持ちて      (  〃  )
    禰宣ばつた髭をつまんで棄てられぬ    (『怒濤』)
    米搗ばつたひとりはねをり蟻地獄     (  〃  )
    長城を立つ螇蚸(はたはた)や雲に落つ  (『沙漠の鶴』)
    濁流より螇蚸きたり汽車に入る      (  〃  )
    螇蚸や黄河の濁り果もなし        (  〃  )
    螇蚸を濁流に追ひ落すかな        (  〃  )
    螇蚸の碑によることも多からず      (  〃  )
    螇蚸の音と思へどかへりみず       (  〃  )
    赭き螇蚸鹹湖の瑠璃を目にやどす     (「死の塔」)
    地より出て瓦壁この世の螇蚸跳ぶ     (  〃  )

 『寒雷』の一句と『沙漠の鶴』の一句にだけルビがある。これらの句を見ると、楸邨は「螇蚸」を「はたはた」と読んでいたことが納得できる。小動物、特に昆虫類は楸邨が好んで詠んだ素材だった。季語索引で確かめたら、「蟻」の97句を筆頭に、「蝶」「蛾」「蝉」「蜩」「蟷螂」「蟋蟀(こおろぎ)」「蝗(いなご)」などが、くり返し詠まれていた。
 山本健吉は、名著『現代俳句』の「しづかなる力満ちゆき」の鑑賞のなかで、「螇蚸」を「ばった」と読み、「句の調子も、徐々に強まり切迫して行った呼吸が、座五の撥音(はつおん)に至ってみごとに転換し終止している」と述べた。健吉にとって、座五は「ばった」という力強い撥音でなければならなかったのだ。
 楸邨の「螇蚸」の句ともに、いつも口遊むのが次の一句だ。
   はたはたや退路絶たれて道初まる  中村草田男(『来し方行く方』)
 昭和22年、46歳の作。楸邨の句と同じく、しずかな決意と自励のおもむきがあり、読者の共感を誘う。

 『全句集』には、加藤瑠璃子編「加藤楸邨略年譜」とともに、『吹越』『怒濤』『望岳』の各年ごとに著者の動静が付されている。『怒濤』の昭和54年に、次のような記事がある。
 「八月二十五日〜二十六日、『加藤楸邨読本』の口絵写真撮影のため、かつて住みし春日部を経て、日光・那須・黒羽等を、角川書店の鈴木豊一氏、石寒太、知世子等と歩く」。
 このときはもうひとり、カメラマンの斉藤勝久が同行した。
 日光では、芭蕉が『おくのほそ道』に記した「裏見の滝」をたずねた。山中ふかく、水量は思ったより多かった。滝の裏側へ登る黒く濡れた隘路が見えた。
 「二十余丁山を登つて、滝有り。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏より見れば、うらみの滝と申し伝え侍るなり」。
     しばらくは滝に籠るや夏(げ)の初め  芭 蕉(『おくのほそ道』)
 知世子夫人の姿が見えないと思ったら、ひとりで滝の裏へ通じる山道を歩いている。「あぶないなあ、滑って墜ちたらどうするのだ」と心配する楸邨をよそに、知世子は滝の裏へ消えた。芭蕉の「岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏より」の眺めを追体験した知世子の満足げな表情が瞼にうかぶ。

     秋風の裏見の滝の裏蒼し  知世子(遺句集『頬杖』)

 後年、この滝を再訪したときは、台風による土石の崩落で滝壺は埋まり、見るかげもなく荒れはてているのに、驚いた。
 『怒濤』(昭61・12、花神社)に、
    雲巌寺満山ねむり青すいと    楸 邨
がある。雲巌寺は、晩夏の鬱蒼たる山を背に、静まりかえっていた。『ほそ道』に、「仏頂和尚山居の跡あり。(略)十景尽くる所、橋をわたつて山門に入る」とあるとおり、朱塗りの橋を渡って、人気のない禅寺を散策した。芭蕉はここで、
    木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立   芭 蕉
と詠んでいる。芭蕉の雲巌寺曳杖は、元禄二年(1689)陰暦4月5日(今榮蔵『芭蕉年譜大成』)。
 黒羽(栃木県那須郡黒羽町)では、芭蕉の弟子浄法寺図書高勝の直系で、楸邨門の俳人でもある人の経営するペンションに泊まった。楸邨は、一反風呂敷につつんで、車中大事そうに抱えてきた木彫の芭蕉座像を、若い主人の前にさしだした。
 「これは、新築開業のお祝いです。ここにおいてもらうのがいちばんよいと思い、もってきました」
 この旅のあいだ、うちとけた楸邨を前にすこし多弁になった私は、少年時代の鮎釣りや投網の経験を話した。友釣りに鮎がかかったときの動悸、置針の鰻を穴から引きだす夜明けの狂喜。旧盆が過ぎると、浅瀬に細波がたって、とたんに鮎の魚影が見えにくくなる。
「これで投網の季節も、夏休みも終りだ、と切ない気分になりました」
というと、
「今日はいい話をきかせてくれて、ありがとう」
と楸邨がいった。

 楸邨の句を初めて読んだのは、十代の終り、角川文庫版『加藤楸邨句集』(昭27・6)だった。『寒雷』『颱風眼』『穂高』『雪後の天』『沙漠の鶴』『火の記憶』『野哭』『起伏』の作品1600句を抄録。昭和6年(26歳)より24年(44歳)まで、18年間の句業である。巻頭に石田波郷撮影の著者近影一葉。巻末の解説は山本健吉。歳月に黄ばんだ本文を開くと、さまざまなしるしやメモが記してある。心を躍らせながら読みふけったことは、同じく昭和27年に出た中村草田男、石田波郷の文庫句集でも同様だった。
 以下、愛誦句の一部を引く。

    行きゆきて深雪の利根の船に逢ふ   楸 邨(『寒雷』)
    武蔵野はもの枯れ冬に入るひかり
    かなしめば鵙金色の日を負ひ来
       高 館
    秋蝉のこゑ澄み通り幾山河
    風邪の床一本の冬木目を去らず
    鰯雲ひとに告ぐべきことならず
    冬帽を脱ぐや蒼茫たる夜空
    寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃
    さえざえと雪後の天の怒濤かな     (『雪後の天』)
    春さむく海女にもの問ふ渚かな
    隠岐や今木の芽をかこむ怒濤かな
    火の奥に牡丹崩るるさまを見つ     (『火の記憶』)
    明易き欅にしるす生死かな
    世に遠きことのごとしや鷦鷯(みそさざい)
    子がかへり一寒燈の座が満ちぬ
    冴えかへるもののひとつに夜の鼻
    雉子の眸のかうかうとして売られけり  (『野 哭』)
    飴なめて流離悴むこともなし       
    鵙もだす歔欷は沈黙より易し
    死ねば野分生きてゐしかば争へり
    鵙たけるロダンの一刀我に欲し
    米負ひて知世子ならずや冬の雁
    Thou too Brutus!今も冬虹消えやすく
    死や霜の六尺の土あれば足る
    夾竹桃しんかんたるに人をにくむ
    天の川怒濤のごとし人の死へ
       悼石橋秀野氏
    君死後の時雨はそそぐ壕の石
    鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる    (『起 伏』)
    野の起伏ただ春寒き四十代
    革命歌梅雨の風見がまはりだす
    金蠅のごとくに生きて何をいふ
    木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ
    霜夜子は泣く父母よりはるかなものを呼び
    ゆく雁や焦土が負へる日本の名

 最後から二句目の「霜夜」は、のちに「雪夜」と改作されたが、私は寒気凛冽の霜夜こそふさわしいと思っている。これらの句は、青春の不安と焦燥を宥め、また老年の無為徒食の憂悶を鎮める。名作にそなわった普遍の力である。
 楸邨俳句に心酔していた十代のころ、楸邨が選者をつとめる受験雑誌に一度だけ投稿したことがある。
    苗代の畦に老翁動かざる
と添削された句が雑誌に載り、賞品の万年筆が送られてきた。楸邨との旅の折、そのことを話し、ひとこと礼をいおうかと迷ったが、芝居がかった気がして、結局、機会を失ってしまった。あのとき、やはり一言、十代の感激を伝えるべきだった、と思いかえしている。

 大田区北千束の楸邨宅へ伺うと、長身を折りまげるように正座して、煎茶を淹れてくれた。古備前の壷や、大小の古碩が無造作に置かれている。玄関の緑釉のみごとな大壷にあこがれて、彦根の骨董屋の店さきに埃をかぶっていた信楽の大壷を買い、免許とりたての家人の車でもちかえったこともある。
 昭和50年、楸邨70歳のころ、作句の動機づけについて質問をした。ぶしつけな問いに、まじめに答えてくれた。
 「これから俳句を作ろうというときは、まず古典、現代をとわず、好きな句集を読む。俳句的感興にひたっているうちに、詩想と意欲が沸々とわいてくる。そうしたら、興のおもむくままに、白紙に筆で書きつけるのです」
 「寒雷」の選句から、若い人の発想に学ぶこともある、という。
 楸邨は、芸術院会員(昭和60年、80歳)となったあとも、大家ぶることなく、純真さを失わなかった。
 山本健吉(昭和63年5月7日没、81歳)は、晩年、楸邨との対談をのぞみ、私は三度、楸邨に打診したが、実現しなかった。健吉の失意落胆ぶりが、あわれに思われた。

 角川文庫句集以後、『山脈(やまなみ)』(昭30・10、書肆ユリイカ)、『まぼろしの鹿』(昭42・12、思潮社)、『吹越』(昭51・6、卯辰山文庫)、『怒濤』(昭61・12、花神社)の4冊を刊行。没後、『望岳』(大岡信編、平8・7、花神社)が出た。
 以下、『怒濤』まで、一集3句に絞って愛誦句を引く。

    冬の浅間は胸を張れよと父のごと   楸 邨(『山脈』)
    落葉松はいつめざめても雪降りをり
    しづかなる力満ちゆき螇蚸とぶ
      浦上にて
    遺壁の寒さ腕失せ首失せなほ天使 (『まぼろしの鹿』)
    屠蘇くむや流れつつ血は蘇る
       良寛に旋頭歌あり/やまたづの/向かひのをかに/さを鹿
        立てり/神無月/しぐれの雨に/濡れつつ立てり/この真
        蹟巷に出でしが我が金策の間に逃げられたり

    まぼろしの鹿はしぐるるばかりかな
    炎天の真のいかりを力とし       (『吹越』)
      バビロンの廃墟にて
    バビロンに生きて糞ころがしは押す
    吹越に大きな耳の兎かな
    ふくろふに真紅の手毬つかれをり    (『怒濤』)
    天の川わたるお多福豆一列
      永別(11句のうち)
    豪霜よ誰も居らざる紅梅よ
 
 最後の句は、妻知世子永別(昭61・1・3、76歳)の悲傷と愁嘆。葬儀の折の、遺族席最前列に座る憔悴しきった楸邨の姿が偲ばれる。
 『怒濤』の「ふくろふ」と「天の川」の2句は、ともに昭和59年、79歳の作。発表時より多くの鑑賞が書かれたが、決定的な定説はない。未到の境地、破格の句である。読みの多義・多様性も、秀句の条件だ。
 俳句を認識の詩と考え、新しみへの探求をやめなかった。
 私は、梟の鳴く夜、無心につかれる真紅の手毬を見ることができ、また、澄みわたった銀河を嬉々とわたってゆくお多福豆の行列をありありと想像することができる。懼るべき楸邨の幻術である。メルヘンととらえるのは、やや常套にすぎる。
 私はかつて、標高2800メートルの南アルプス農鳥小屋で、触れんばかりの天の川と、きりもなく飛び交う流星に息をのんだことがある。楸邨は、内外の旅で、壮大な宇宙のドラマを体験している。それは、楸邨の発想の契機となった。
 浄真寺の墓誌には、「智楸院達谷宙遊居士」と楸邨の戒名が刻まれている。怒りと慟哭から出発した楸邨の句境は、滑稽と諧謔を加えつつ、「宙遊居士」の名のとおり、無辺の宇宙へと向かっていったのである。

    厚き雲割つて夕陽や楸邨忌   赤榴子


   0717.jpg
      楸邨自筆色紙 <しづかなる力満ちゆき螇蚸とぶ>

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Category : 加藤楸邨
Tag : 加藤楸邨
Posted by sekiryusha on  | 1 comments  0 trackback

1 Comments

太田かほり says..."No title"
加藤楸邨の名句の山々に改めて圧倒されます。楸邨忌に合わせて掲載された筆者の心中が垣間見られます。編集者と作家との関わりによっても作品の誕生の仕方は変わるものだと感じました。
加藤楸邨と山本健吉のビッグ対談が実現しなかったのはなぜだろうと考えています。ご文章の中に答やヒントがあるかと思いますが、読解力不足、楸邨の人と作品を研究すれば出てくるでしょうか。
最晩年の「ふくろふ」「おたふく豆」については、「未到の境地、破格の句」として肯定され、そこまで鑑賞できる読者の養成が現俳壇の問題かなとも。つくづくとよき編集者がいた頃の俳句界の幸運を想います。
今回は、最初と最後に「赤榴子句」が置かれ、二句ともに弔句と忌の句であり、対照への思いの深さがうかがえ、そこから俳人楸邨の尽きない魅力がいっそう広がっていきます。今年は存外の梅雨明けでしたが、梅雨どきゆえのなおざりならぬ追慕の念を想像しました。
2013.07.23 14:26 | URL | #- [edit]

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