石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

はるかなる墓碑 -福永耕二-

 福永耕二の死は唐突だった。昭和55年12月4日、敗血症に心内膜炎を併発して急逝。42歳と10か月だった。耕二は心臓の持病があり、常時救急薬を持ちあるいていた。黒いベレー帽に人なつっこい笑顔をたやさなかった好人物の不意の死は、俳人たちに大きな衝撃をあたえた。妻子を遺して40代で絶命するということが、同世代の私にはとてもひとごととは思えず、大きなショックを受けた。
 「馬酔木」最後の発表となった作品は、次の7句だった。

     栃落葉了へたる庭に戻り来ぬ    福永 耕二(昭56・2「馬酔木」)
     海桐の実砕けてものを思へとや
     山茶花の散華いちじるしき一樹
     病室に子恋つのらす十三夜
     退院の祝杯のまだ林檎汁
     侘助や生徒に会はぬ五十日
     ぼろぼろの身を枯菊の見ゆる辺に

 耕二は死の前年春、千葉市磯辺に転住。殺風景な庭に次々と苗木を植えるよろこびを詠っている。

     苗木さへ泰山木は鬱たる樹     耕 二
     栃植えてよりわが庭も凡ならず
     日曜大工日曜庭師芝青む
     いつぽんの鞭の真青き梅を植う
     リラ植えてリラの曇の昨日今日
     菜種梅雨ややに根付くか樹も人も
     朴植えて凡日を凡ならしめず
     身に沁みて庭木まばらの庭に佇つ

 いずれも昭和54年の作。丘陵の家の庭に山の木を植えてゆく親子の姿を描いた庄野潤三の家庭小説『夕べの雲』を私は思いだした。その庭木を眺めながら、林檎汁で退院の祝杯をあげるつかのまの安堵と不安と。そして再入院、病急変して不帰の人となる。「ぼろぼろの」の句は、遺句集『散木』の最後におかれている。

 能村登四郎句集『冬の音楽』(昭56、永田書店)に耕二追悼の四句が載っている。

         福永耕二の突然の死に
     言なくて凍る夜をただ立ち尽くす     能村登四郎
     豊頬や若さを余す寒の死者
     耕二ぼろぼろもつとも嫌ひし冬を逝けり
     遺児といふ寒き名負ふもこの夜より

 「歳末には私のよき後輩として育てた福永耕二の突然の死に遭った。その前途に大きな期待をもった作家だけに痛恨が今も疼いている」とは、句集後記の一節である。

 福永耕二は昭和13年1月4日、鹿児島県生まれ。私立ラ・サール高校から鹿児島大学文理学部に入学。35年、同校国文科を卒業、純心女子高校に赴任。39年、国分実業高校に転任。同年8月、九州歴訪の能村登四郎と会う。40年、登四郎の推輓により上京し、4月より私立市川高校国語教師となる。42年、馬酔木新樹賞を受賞。結婚。45年、「沖」創刊に参加。「馬酔木」編集を担当、47年より55年まで編集長。句集は『鳥語』(昭47、牧羊社)、『踏歌』(昭55、東京美術)、『散木』(昭57、東京美術)の3冊。
 第一句集『鳥語』は、昭和33年より47年までの449句を収録。劈頭の、
     浜木綿やひとり沖さす丸木舟     耕 二
は、「馬酔木」昭和33年7月号の水原秋桜子選作品欄で巻頭となった5句中の1句で、大学2年のときの作。他の<著莪の花旅の日焼のいさぎよし><仔の馬も草を背負へり朝雲雀><日覆や波止にならべて鰹売る><岩山が雲堰き立てり夏わらび>など4句は句集から省かれている。

     棕梠の花海に夕べの疲れあり     耕 二
     菜の花や食事つましき婚約後
       長男克子夏誕生
     父となるたやすさ春の鳩見つつ
     子の蚊帳に妻ゐて妻もうすみどり
       波郷先生告別式
     さざんかの散華白妙波郷逝く 
     泳ぎ来し髪をしぼりて妻若し
     錦木や鳥語いよいよ滑らかに
       次男新樹誕生
     産声や天に槻の芽くぬぎの芽
     香水瓶涸れて久しき二児の母
     連翹や朝のひかりのまつしぐら
       父死す 享年六十一歳
     天寿とはいへぬ寒さの蕗の薹
     陽炎につまづく母を遺しけり

 句集名の「鳥語」は、鳥の鳴き声のこと。『鳥語』が出たあと、結社誌などにこの言葉の句をみかけ、耕二の影響力を思った。境涯詠、自然詠ともに、清新な抒情が匂いたつような、若々しく颯爽たる印象だった。
 第二句集『踏歌』は、昭和47年から53年までの463句を収録。「題とした『踏歌』は、李白の詩にも出ているが、『連袂踏歌』などと使われ、足踏みしてうたう歌というくらいの意である。この七年間は私の三十代後半にあたり、怱忙の裡にも仲間と交歓し、充実した時期であった。それを記念する思いもある」とあとがきに記す。

     雲青嶺母あるかぎりわが故郷
     茂吉らが歌の雄ごころ朴咲けり
       長崎・西坂
     燕が切る空の十字はみづみづし
     水底の日暮見て来し鳰の首
     凧揚げて空の深井を汲むごとし
     燕来て魜もつばさを張らむとす
       長崎行
     山垣のかなた雲垣星まつり
       相馬遷子氏逝く
     師を葬る日も浅間嶺の雪絣
     泰山木愁眉ひらけと咲きにけり
     薫風のみなもとの樟大樹なり
     母の日の来るよ不幸を量るため
     新宿ははるかなる墓碑鳥わたる

 最後の「新宿は」の句は「俳句」昭和54年1月号、「特集・現代の俳人 福永耕二」の「夕澄」20句の巻頭句として発表された。新宿の淀橋浄水場のあとに最初の超高層ビル京王プラザホテルが完成したのは昭和46年のこと。その後、林立するビル群にこの句と同じ思いを抱いた人は多かったはずだ。それをみごとに代弁した、印象鮮明な一句である。その時の「俳句」編集後記に私は次のように書いた。
 「本号福永耕二氏の『魚野川にて』の述懐はすがすがしい。救いが外から来ない以上、自分の魂を清らかに保つよう努めるほかはない。俳句の季物、素材は肉眼で見るが、作品を結実するのは心と言葉、内面凝視が欠かせない」。

 耕二から「馬酔木」編集長をやめるという話をきいたのは、ある俳誌の祝賀会の折だった。あんなに寂しそうな耕二を見たことはなかった。私もそのころ、「俳句」から「短歌」の編集担当への移動を告げられていた。
 昭和55年7月29日、「俳句」の編集を去ることになった私のために、草間時彦・村山古郷の発企により、俳句文学館で俳人の集いが催された。耕二も能村登四郎、林翔とともに出席。耕二から「馬酔木」編集の苦心談や、亡き相馬遷子への賛辞を熱っぽく語るのを同感しつつきいた。

 『散木』より。
     還らざる旅は人にも草の絮     耕 二
       仰臥
     露けくて一流木のごとき形(なり)
     粥食つて腹透き徹る白露かな
     病めば夜の永劫かとも柿一顆
     冬に入る仰臥や胸に書を載せて
     点滴に縛されし手の冷えまさる
     患者食なべて薄味かぶら汁 

 句はこのあと、初めに引いた「馬酔木」最終発表作へとつづく。
 読みかえせば、どの句にも無念の憾みと祈りのこころとが感受される。

 新宿の超高層ビル群を遠望するとき、天駆ける耕二の霊魂を幻想することがある。優れた作品は、作者の死後、読者の心の中で自在に成長する。耕二の句もまた、そのようにして、忘却と蘇生とを繰りかえしつつ、高い位を得てゆくにちがいない。
shinjuku.jpg

新宿ははるかなる墓碑鳥渡る    福永耕二
新宿超高層ビル(新宿区西新宿)

Category : 福永耕二
Posted by sekiryusha on  | 1 comments  0 trackback

1 Comments

太田かほり says..."俳句は伝記"
福永耕二、赤尾兜子を拝見しました。二人の記事にかぎりませんが、編集者としてだけではない交流の様子がうかがえる場面がいくつもあり、「俳句は自伝」より「俳句は伝記」のような文学性を感じます。臨場感やドラマ性があり、しばしば小説を読んでいるような面白さです。それなのに、一人一人の作家に過度に肩入れしない節度に感心します。お酒を交したり死期の迫ったお見舞いをしたりすれば情が移ると思いますが、あくまで公正でそれでいて温かく、対象が描かれ、どの一人からもなおざりならぬ人生が伝わってきます。深く、ほんとうに見事な一編一編です。
能村登四郎は、「俳句」「俳句研究」などで私が生前の活躍を見てきた唯一の俳人です。登四郎句については何度も駄文を書いてきましたが、選句に大きな間違いがなかったなと少々甘い自己採点ができました。現俳壇をどのようにご覧になっていられるか、筆がそこに及ぶことにも期待し、それ以上に、飯田龍太先生をどのようにお書きになるのか、ますます今後へ期待が膨らみます。
2012.06.12 13:57 | URL | #- [edit]

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