石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

晩年の華 -能村登四郎-

 能村登四郎は、晩年に至るまで、意志的な自己変革によって、作風の変貌をかさねた希有な俳人である。

 『現代俳句大系』第11巻(昭47・7、角川書店)に、登四郎の第二句集『合掌部落』が収録されている。
 登四郎には、それまでに第1句集『咀嚼音(そしゃくおん)』と第2句集『合掌部落(がっしょうぶらく)』の2冊の句集があった。『大系』の企画趣旨と句集収録の依頼状をいっせいに発送したところ、登四郎からの返信に、自分としては『咀嚼音』に愛着があるので、できればそちらを収録してほしい、とあった。私は登四郎に、『大系』編集委員の意見を確かめてみます、と答えたが、社会性俳句の代表的句集として『合掌部落』を収録するという方針は変らず、結局、登四郎も納得した。
 『大系』第11巻の月報に400字5枚の「合掌部落の思い出」を書いてもらった。登四郎は社会主義的イデオロギーを土台とした作品よりも、厳しい風土のなかで必死に生きる人々の生活を詠むことに関心があった。千載一遇ともいうべき合掌部落との出会いについて、ときめきと敬虔な気持とを率直に綴っていた。その原稿はいまも私の手もとにある。

 『合掌部落』は、『咀嚼音』以来の境涯俳句と、「内灘」「合掌部落」「男鹿の冬」「八郎潟干拓田」「囚徒の詩」などの社会問題を素材とした社会性俳句との二つの流れが共存する。
 社会性俳句は昭和35年の安保反対運動の挫折によって大きく退潮した。『合掌部落』はいまや社会性俳句の貴重な実践記録として、昭和俳句史にその名をとどめることとなった。「合掌部落」35句の初出は、「俳句」昭和30年10月号。ときの編集長大野林火は、のちに、「この句稿を抱いてきた登四郎を私は一茶房に誘ったがその頬はかがやいていた。何かを成し得た満足感が感ぜられ、頼もしかったのを覚えている」と記している。

     内灘 日曜日とて射撃なし、炎日眩むがごとし。
   色わかき南瓜這ひをり単線路    登四郎
     金沢はわが父の生れし地。
   汗ばみて加賀強情の血ありけり
     輪島より千枚田へ
   早稲の穂の息づきふかし日本海
     萌子を伴ひて立山に登る
   霧をゆき父子同紺の登山帽
     所謂大家族制と合掌造とで名のある白川村は、御母衣ダム開発のため、
       ここ数年にして湖底に没すといふ。村民反対の中に既に工事すすめり。
       立秋の翌日、ただひとり奥飛騨の峡村をゆく。

   風まぎる萩ほつほつと御母衣(みぼろ)村
   白川村夕霧すでに湖底めく
   暁紅に露の藁屋根合掌す
   優曇華や寂と組まれし父祖の梁
   合掌部落ほろぶ日月の露ふれり

 「暁紅」の句について、のちに登四郎は次のように書いている。
 「私は朝露にびっしょり濡れて森を抜けると、眼の前に三階造りの茅葺き屋根の民家が立っていた。朝の炊煙がほのぼのと洩れていた。私はほとんど戦慄に近い感動で立ちつくした」
 多作家であった登四郎に、『合掌部落』のあと、寡作な時代がおとずれる。「内灘」も「砂川」も、その闘争の期をすぎると白けきったものとなる。『合掌部落』から13年後に出版された『枯野の沖』では、

   火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ    登四郎

という視覚にたよらない、虚実皮膜の間に新しい俳句が生まれてゆく。
 
 登四郎が満齢喜寿を迎えた昭和63年1月、喜寿記念の特別作品77句の寄稿を打診した。原稿依頼は快諾。少し準備期間がほしいということで、「俳句研究」63年7月号に「頽唐(たいとう)」77句が発表された。登四郎は新たな作句法の手ごたえを得たようで、大作の楽しみと効用とを私に語ったことがある。思いもかけぬ発想が湧いたり、旅先で日常身辺の句が浮かんだりすることがある、という。

   去勢後の司馬遷のゐる桃林     (『菊塵』)
   夏掛のみづいろといふ自愛かな
   厠にて国敗れたる日とおもふ
   今思へば皆遠火事のごとくなり

 『能村登四郎読本』を「俳句研究」別冊として富士見書房より刊行したのは平成2年11月だった。『読本』の出た同じ11月に、赤坂プリンスホテルで「沖」創刊20周年記念祝賀会が催された。会が始まる前、登四郎は会場の外へ出て、こんなことを言って私を驚かせた。
 「今度の本は大変よくまとめてくれた。あたしは、これでいつ死んでもよいという気持なのです」

 平成3年8月には、傘寿記念の特別作品「長嘯(ちょうしょう)」80句を「俳句研究」に発表。これは、第11句集の書名となり、句集刊行の翌平成5年、第8回詩歌文学館賞を受賞した。登四郎晩年の艶冶、俳諧無辺、放下の句境と評される世界である。
 
   霜掃きし箒しばらくして倒る    (『長嘯』)
   腹鳴るを若さとおもふ麦の秋
   甚平を着て今にして見ゆるもの
   人の死も蝉の死も皆仰向ける
 
 『読本』初版から10年後の平成12年11月、『増補能村登四郎読本』刊行。巻頭口絵にモノクロ写真一葉。平成12年9月10日、川崎市の長女萌子の家で撮影。吾亦紅や竜胆などの秋草が活けられた床の間を背に正座する登四郎の風貌は、虚飾を拭い去った禅僧のおもむきがあった。俳句には、このように、晩年の美貌を生み出す力が秘められていたのか、と私は畏敬の念を新たにした。
 喜寿と傘寿の特別作品を契機に、『易水』『芒種』『羽化』という晩年の多作時代を迎える。

   月の出の滄浪何を濯ぐべき       (『易水』)
   易水に鳥の屍またぐ凍りをり
   匂ひ艶よき柚子姫と混浴す
   跳ぶ時の内股しろき蟇
   火取虫男の夢は瞑るまで
   ひともがきして凍鶴の凍てを解く    (『芒種』)
   青梅雨や流木に知るものゝ果
   芒種とふこころに播かむ種子もがな   (『羽化』)
   亀鳴くを信じてゐたし死ぬるまで
   月明に我立つ他は箒草
     中村歌右衛門逝く
   行く春を死でしめくくる人ひとり

 平成13年5月24日、永眠。享年90。墓は菩提寺の谷中延寿寺にある。門を入ってすぐの本堂前に小ぶりの句碑が立つ。

   曼珠沙華天のかぎりを青充たす   登四郎

 秋には真紅の花を咲かす曼珠沙華が、緑の葉をのばし、句碑によりそっている。

 登四郎の俳句人生は、作家の成熟とは何か、という問いへの一つの回答となっている。伝統文芸の系譜につらなるという強い自負と信念とが、つねに自己変革を促し、俳句の新しみを追求した。
 登四郎門から多くの新鋭・精鋭が輩出したことも特筆に値する。芭蕉のいう「俳諧に古人なし。われはただ来者を恐る」という謙虚さと、後進の育成は結社主宰の責務という真摯な姿勢が、門弟たちを奮い立たせる。内に秘めた名伯楽の意地が、卓越した指導者と作家とを両立させ、類ない晩年の華を咲かせたのである。

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           曼珠沙華天のかぎりを青充たす   登四郎
              能村登四郎句碑 台東区谷中 延寿寺

Category : 能村登四郎
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