石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

からくれないの心意気  —桂 信子—

 桂信子に初めて原稿を書いてもらったのは昭和47年、『現代俳句大系』第7巻月報の「空襲と『月光抄』」だった。その後、「俳句」「俳句研究」に身辺エッセイ、追悼文、作品鑑賞などの文章を書いてもらった。毎回、歯切れのよい明晰な筆はこびに感じいった。
 最後にもらった原稿は、平成15年3月刊行の「俳句研究」別冊「現代俳句の世界」の巻頭エッセイ「俳句と私」だった。添えられた私信に、「私は昨日八十八歳になりました。今度お正月がまいりましたら数え年九十になります。もう文章もこれが最後かもしれません」とあった。手書きの原稿は字画ただしく、文章にはいささかの乱れもない。

 信子は本姓丹羽。昭和14年11月(25歳)、桂七十七郎(なそしちろう)と結婚。神戸に新居を構えるも、16年9月、喘息発作のため夫急逝。子供がなかったため大阪の実家に帰り、以後、桂の姓を変えず、『月光抄』『女身』で「寡婦」としての喜怒哀楽を詩情ゆたかに詠んでゆく。

       家全焼—三月十四日
     春暁の焼くる我家をしかと見き     桂 信子(『月光抄』昭24刊)
     かの壁にかゝれる春著焼け失せし
     霜きびし母娘こもれる深廂
     夫の忌をこゝろに秋の京に入る
     雁なくや夜ごとつめたき膝がしら
     子がなくて白きもの干す鵙の下    (『女身』昭30刊)
     寡婦ふたり歩む吉野の春鴉
     ひとり臥(ね)てちちろと闇をおなじうす
     遠山に日ざし衰ふ二月尽

 空襲による家屋焼失のことは、最晩年の句集『草影』(平15、ふらんす堂)でも詠まれている。

       昭和二十年三月十四日未明
     炎上せし雛の叫び暁の雨

 平成14年、87歳の作。
 また、第6句集『緑夜』(昭56、現代俳句協会)巻末の自伝的エッセイ「川の流れ」に次のような一節がある。
 「私が、数え年四つの時、船越町(ちょう)に家を購い、そこが父の最後の家となった。この家は、昭和二十年三月十四日、空襲にあい焼けてしまったがーー。(略)
 母が私の眠り際にうたってくれた子守歌は次のようなものであった。

     ねんねころいち 天満の市は
     大根そろえて舟に積む
     舟に積んだらどこまでゆきゃる
     木津や難波の橋の下
     橋の下にはかもめがいやる
     かもめとりたや網ほしや(略)

 私の心のうちを流れる水は、私を遠い昔へ運んでくれる。これからも、私はたぶん水に添って、歩いてゆくだろう」。

       一月二十九日草城先生逝去さる(昭和30年)
     父も夫も師もあらぬ世の寒椿     信 子(『晩春』昭42刊)
     手袋に五指を分ちて意を決す
     とどろきてわたる天竜蛇笏逝く
     水に映る花の克明死はそこに
     男の旅岬の端に佇つために
     春水のきらめくに似て過ぎし日は
     菊咲いて女に水と時間澄む      (『新緑』昭49刊)
     凧糸の白のひとすじ身より出て
     明日は死ぬ寒鮒の水入れ替える
       母容態悪化
     母の魂梅に遊んで夜は還る
     新緑のなかまつすぐな幹ならぶ
     夜の町は紺しぼりつつ牡丹雪     (『初夏』昭52刊)
     きさらぎをぬけて弥生へものの影
     野の果をずいと見渡す更衣
     冬に入るけものの逆毛撫でながら   (『緑夜』昭56刊)
       立 山
     落日や雪嶺は意のままに聳ち
     こめかみに一烈火あり梅雨の闇
     立冬の水にしばらく山うつる

 信子の祖先は長野県だった。昭和53年12月11日付のはがきに次のように書かれている。
 「御葉書有難うございました。『曼珠院など』で結構でございます。先日、 百合山羽公氏の文章をよんで居りましたら、鈴木様が甲斐の出身で斉藤様が信州だと伺いました。私の祖先は、信州諏訪氏で甲斐の武田氏にやぶれ、そのあとは信州の宮田という処の城主となりましたが又又織田氏にやぶれその家臣となり、本能寺の変のあと、秀吉につかえる気もなくて岐阜に一族郎党と共にすみついたというのです。信州の宮田という処へ一度いってみたいと思いながらまだ果せません。羽公氏の文章を拝見して、何となく遠い祖先をおもいました」。

 『草樹』(昭61、角川書店)前後のころの信子自筆の「作句信条」が手もとにある。
 「俳句は平明でなければならぬと思っています。しかし単なる平明な表現がよいと言う意味ではありません。平明な表現のなかにたたえられた滋味、それを感じさせる奥行きのふかい句をつくりたいものと思っています。
 『表現は平明に、内容は深く』ということなのですが、ほんとうによい俳句は口ではちょっと説明出来ないのではないでしょうか。会得するより致し方ありません。いい作品はおのずから光を発するものです」。
 桂信子の句集は、昭和24年刊行の『月光抄』から平成15年刊行の『草影』まで10冊があり、作品はすべて制作年順に配列されている。なまじの作為を加えようとしない潔さを示すものだ。

     舟底押す水の力や秋の暮   (『草樹』昭61刊)
     猫の胴のびきつて起つ節分会
     花のなか太き一樹は山ざくら
     海峡のまんなかを航く大暑かな
     ごはんつぶよく噛んでいて桜咲く
     雨傘を横に払うて親鸞忌
 
 「短歌」編集のころ、生島遼一にエッセイを書いてもらった。生島を知ったのは信子の話からだったので、掲載号を送ったら、礼状がきた。昭和55年12月29日消印。
 「今年も余すところ僅かとなりました。只今は『短歌』一月号をお送りいただき有難うございました。生島遼一先生のご文章うれしく拝見いたしました。今年角川賞選考会の翌日、諏訪へゆき島木赤彦の生家を訪れたことなつかしく思い出しました」。
 生島が亡くなったのは平成3年8月23日(87歳)。9月8日消印の手紙がある。
 「昭和十四年以来私淑して居りました生島遼一先生がお亡くなりになり力を落して居ります。神戸経済大学(現神戸大学)の予科図書課にお世話いただきましたのも先生のおかげでした。普通は挺身隊として工場へ勤労動員されるところでした。奥様も私の先生で、ご夫妻とも大変な恩義にあずかりました」。
 この生島邸で会った文化人は、桑原武夫、三好達治、大岡昇平、吉川幸次郎、服部英次郎(哲学)、佐野一男(『失われた土地』の訳者)など数えきれない、という。
 「五十余年にわたるご夫妻のご恩をおもい、ご恩返しもしなかったことを悔いて居ります」。
 寝る時間を惜しんで、長い手紙を書く信子のひたむきな気持が筆跡にこもり、黙祷した。
 生島は、『月光抄』に序文を、『女身』に跋文を書いている。さらに、『現代俳句全集』二(昭52、立風書房)所収の「桂信子集」に「桂信子さんのこと」という透徹した作家論を書いている。

 第8句集『樹影』(平3、立風書房)、第9句集『花影』(平8、立風書房)、第10句集『草影』(平15、ふらんす堂)のいわゆる「影」3部作は、昭和61年(70歳)から平成14年3月(87歳)までの作品を収める。個の嘆きから造化天然の不思議へと、句柄はしだいに大きくなってゆく。信子俳句の完成期である。『樹影』で第26回蛇笏賞、『草影』で第45回毎日芸術賞を受賞。
 蛇笏賞授賞式のあと、東京會舘1階グリル・ロッシ二で2次会が行われた。乾杯発声の三橋敏雄は「ノブコちゃん、おめでとう。乾杯」と言い、信子は「トシちゃん、ありがとう」と言った。司会は宇多喜代子。スピーチは、高屋窓秋、沢木欣一、細見綾子、金子兜太、藤田湘子ほか。
 毎日芸術賞の授賞式は平成16年1月26日午後4時より、東京會舘9階ローズの間にて。壇上の信子はいつものとおり、背筋をのばして「かつらのぶこで、ごさいます」とめりはりのあるかん高い声で挨拶した。
 『草影』には、「平成十一年七月三十一日骨折入院 五十六句」という大作がある。

     病窓に日々の夏雲鮮しき     信 子(『草影』)
     亡き父も亡き兄もゐて白絣
     心中になほ期するあり水の秋
     朝粥のまはり初秋の光満つ
 
 祝賀会のとき、「骨折、大変でしたね」といったら、
 「もうよろしいの。ほら、このとおり」
と目の前で跳んでみせた。童心と人を喜ばす心配りとは、九十ちかくなっても失われていないのだ。
 信子は晩年、俳句の風潮に苦言を呈し、「昔、松本たかしが天龍川をひとりさかのぼったときのような俳句がよみたいと思います」といった。たかしの句は『石魂』(昭28、笛発行所)所収、昭和19年冬の群作23句。「信遠二国の境天龍渓谷の最も嶮しき辺りを一人辿る  
時に戦局漸く重圧を加ふ」。<冬山の倒れかかるを支へ行く><天龍も行きとどこほる峡の冬>。

 平成11年3月20日、東京會舘で「女性俳句」終刊記念の会があった。
 「終刊記念パーティーの時は、あなたとおなじテーブルのしかもお隣りになり、思い出ふかい会となりました」(平成14年11月9日付書簡)。
 筆まめな信子のおかげで、過ぎし日のことどもがありありと思いうかぶ。このパーティーでは、不意にスピーチの指名をうけて面くらったが、虚子のことばを引き、いまや無頼も風狂も女性の時代、「女性俳句」45年の功績ははかりしれない、とのべた。信子は、全国各地で催された大会に欠席したのは二回だけだったという。
 これが最後かもしれないという「俳句と私」につぎの一節がある。
 「夫を失い師が逝かれ、母が亡くなり続いて唯一人の兄が逝き、昨年末は長い間共に過した義姉も他界した。あとは俳句だけになった。俳句は自分のよみたいようによむしかない。(略)俳句は唯一私の心のよりどころである。私にとってそれ以外の何物でもない」。

     草の根の蛇の眠りにとどきけり     信 子(『樹影』)
     地の底の燃ゆるを思へ去年今年
     たてよこに富士伸びてゐる夏野かな
     忘年や身ほとりのものすべて塵
     初凪や天変地異の兆しつつ       (『花影』)
     龍太の句見たし読みたし春の暮
     誓子先生翁とならず逝きませり
     冬滝の真上日のあと月通る
     死ぬことの怖くて吹きぬ春の笛
     青空や花は咲くことのみ思ひ
     雪たのしわれにたてがみあればなほ   (『草影』)
     人形の髪朧より摑み出す
     逝く秋のからくれなゐの心意気
     秋ふかみゆく身ほとりの草も樹も
       満八十八歳数え年九十歳となる
     九十の顔(かんばせ)かこれ初鏡    (「俳句」平15・1)
     夏怒濤海は真(まこと)を尽しけり   (「草苑」平16・8)

 大阪での「草苑」の祝賀会の折、「私は桂信子のエッセイのファンである。にがみのきいたユーモアには、今様清少納言のおもむきがある」という意味のことを話した。
 『桂信子全句集』(平19、ふらんす堂)につづいて、信子の文集が準備中という。すべて、宇多喜代子の労によるものだろう。<死に未来あればこそ死ぬ百日紅 喜代子>。
 平成16年12月16日、永眠。満90歳1か月。戒名・桂草院釈尼信光。


歯切れよき桂信子の冬帽子     赤榴子


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昭和53年11月24日、池田市栄本町・逸翁美術館にて

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今月の一句 <如月>


下萌えぬ人間それに従ひぬ  星野 立子


 句集『笹目(ささめ)』所収。昭和21年作。立子42歳。疎開さき小諸での厳しい冬を過ごしたあとの、春の訪れの歓びをうたっている。

 <朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ><笹鳴や世にもきれいな夕日今><小諸より見る浅間これ春立ちぬ><紀元節小諸に住みて綿子着て>は小諸時代の作。
 植物も動物も、日照時間の変化を敏感に察知して、季節を先どりする。
「下萌」は、枯れ一色の大地に緑を点じて、生命躍動の春の到来を告げる。
 虚子の<時ものを解決するや春を待つ>とあわせ読むと、おのずから父子相伝の自然観照を窺うことができる。虚子は、立子の句に触発されて、「いずれも宇宙の現れの一つ」という俳話エッセイを書いた。
 「天地の運行に従って百草は下萌をし、生い立ち、花をつけ、実を結び、枯れる。人もまた天地の運行に従って、生れ、生長し、老い、死する。(略)
畢境人も草木禽獣魚介の類と共に、宇宙の現れの一つであるに過ぎない」(虚子『俳句への道』)。
 立子の初期に<下萌にねぢふせられてゐる子かな>という、幼きものへの温かいまなざしをむけた句もある。 

紅梅や笹目に立子訪ひしこと    赤榴子

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Category : 二月
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