石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

心をつくして歌を憎めよ −斎藤 史−

 斎藤史(さいとう ふみ)は、「短歌」編集時代に出会った人々のなかで忘れることのできない女性歌人のひとりである。
 明治42年(1909)2月14日、東京市四谷区仲町生まれ。軍人・歌人の瀏(りゅう)の一人娘。昭和2年、父にならい佐佐木信綱の「心の花」に作品を発表。歌集は『魚歌(ぎょか)』(昭15)から生前最後の『風翩翻(かぜへんぽん)』(平12)まで、11冊。没後に『風翩翻以後』(平15)刊。
 『漁歌』は、昭和初期のモダニズムの風潮から出発する。
   
 白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすを磨いて待たう  斎藤 史
 時劫(とき)さへも人を忘れる世なれどもわれは街街に花まいてゆく
 くろんぼのあの友達も春となり掌(て)を桃色にみがいてかざす
 飾られるシヨウ・ウインドウの花花はどうせ消えちやうパステルで描く
 南仏にミモザの花が咲き出せば黄のスカーフをわれも取出す

 昭和3年5月、済南(さいなん)事件勃発。父瀏は、第11旅団長として山東省に出兵。中国駐留中に内閣交代、反対党の意見により責を負って退役する。

     満州事変に際し、父斎藤瀏に「往事茫茫」の作あり。
     旅団長として済南事件に兵を率ゐたるより後の事を思へば、
     感慨おのづから多くあらむ。

 大君の御軍人(みいくさびと)の父にあればひたすらにして黙退(もだしりぞ)きき

 そうして、昭和11年、二・二六事件。

     二月二十六日、事あり。友等、父、その事に関わる。
 濁流だだくりゆうだと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
     五月二十日、章子生る。同二十九日、
     父反乱幇助の故を以て衛戌刑務所に拘置せらる。
 小さくていのち頼りなき子を抱きかへりし家にすでに父はなし
 暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた
     九月十七日。仮出獄を許されて、父かへる。
 吹きさらされて居るといふともこの野にはすかんぽの花地しばりの花

 二・二六事件は、最晩年にいたるまで、くりかえし詠まれた大きなテーマだった。戦後、事件に関する新資料が発表されたりしたが、真相は謎のままだった。

 昭和20年3月、長野県に疎開。28年、長野市東鶴間町に新築転居。7月、父死去。8月、夫の堯夫は医院を開業。

     瀏、七十四歳
 稚(をさな)のごとわれのかひなに倚 らしめてはげしき生も終わらむとしつ 史
 明治大正昭和三代を夢とせば楽しき夢かわが見たりけり           瀏
 
 二・二六事件への感懐は、晩年の歌集『風翩翻』(平12)でも『風翩翻以後』(平15)でも、くりかえし詠まれている。

 捨て皇子(みこ)をあはれと謡ふ遠むかし 捨て皇軍をいかにうたはむ
 位階勲功剥奪あとの父の世といづれも老はさびしかりけむ
 奉勅命令とは何なりし伝はらず 途中に消えて責任者無し
 知らぬうちに叛乱の名を負はされしわが皇軍の蹶起部隊は
 幻の命令の行方聞く手段(てだて)さへあらず 弁護人持たぬ軍法会議
 死刑を含む千四百八十三名思はざる罪名をもて処刑されたり
 殺傷は許すべきことならねども<叛乱>と言ひ出ししは誰
 敗戦にまぎらして<叛乱>の語を消去せし国家(くに)のなしたるごま化しも見き
      道浦母都子氏テレビにて、史を語る。偶然二月二十六日。
 思ひやる汨羅(べきら)の渕は遠けれどそれを歌ひし人々ありき
 理不尽な軍法会議の実態について、「おやじと私―二・二六事件余談」で実証的に語っている。

 斎藤史を長野市東鶴賀町の自宅へたずねたのは、昭和56年5月21日だった。夫堯夫(70歳)、母キク(91歳)死去のあと、ひとり住いの玄関には医院の名残りの白い陶製の表札が掛かっていた。「短歌」口絵写真撮影のため、市内飯縄の大座法師池と戸隠村の水芭蕉群生地へ行った。
 「大座法師池は、ダイダラボッチにちなんだ名前です。信州には巨人伝説が多いのです」と史が言った。
 戸隠村では、水芭蕉の花にかがんで、白い仏焔苞と黄緑色の花穂に指さきでふれ、その感触をたしかめていた。史72歳、長野に移り住んで36年。随所にあるじとなって、歌を詠みつづける純粋な人柄がつよく印象にのこった。
 史はみずからの老年と、肉親の死を冷静に見つめ、内省的にうたっている。

     (昭51)十月十八日、夫堯夫死す
 ひそやかに死のすりよりて来る気配夜のけものの吐く息に似て
     (昭54)母死す。両眼失明後十余年老耄の果の九十一歳
 のちの世にめぐり逢ふとも思へねば母の落ちたる瞼を撫づる
 我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよ生(あ)れしことに黙す

 第8歌集。『ひたくれなゐ』(昭51)により第37回迢空賞、第9歌集『渉りかゆかむ』(昭60)により第37回読売文学賞、第10歌集『秋天瑠璃』(平5)により第5回斎藤茂吉短歌文学賞と第9回日本現代詩歌文学館賞を受賞。平成5年、日本芸術院会員となる。

 おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにいかぬなり生は『ひたくれなゐ』
 死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生(せい)ならずやも
 つゆしぐれ信濃は秋の姥捨のわれをおきざり過ぎしものたち
 生きいそぎ死にいそぐべき我ならね花のひらくを待つ今日あした『渉りかゆかむ』
 「この世は時雨よのう」さと過ぎて濡るるもあれば 濡れて乾くも
 心つくして歌を憎めよその傷の痛みすなはち花となるまで
     (昭63)冬、二・二六事件新資料発見の報あり
 所詮一生つながる記憶手鎖(てぐさり)の五年はおそか五十余年を『秋天瑠璃』
 疲労つのりて引出ししヘルペスなりといふ八十年生きれば そりゃああなた
 友らの刑死われの老死の間(あひ)埋めてあはれ幾春の花散りにけり
 くしけずるわが老髪は燈に透きてわかきぬばたまの夜ぞ恋しけれ

 歌人にせよ俳人にせよ、生涯の記念碑的作品を生みだすことは並大抵の苦心ではない。力をゆるめれば、歌はたちまち平板に堕する。自らの画期を刻印するつよい意志力が不可欠だ。
 
 生前最後の歌集『風翩翻』(平12)は、84歳から90歳までの作品488首を収録。老年の日々の行住坐臥を凝視した希有な歌集である。
 平成9年1月14日、明治10年以来、史上3人めの女性歌人の召人として宮中歌会始に参列。題は「姿」。

 野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝に抱きて 『風翩翻』

 このときの様子を、歌会始選者の岡井隆は次のようにのべている。
 「セレモニイが終つて、となりの竹の間に移つて、召人とわたしたち五人の選者が待つてゐると、天皇・皇后両陛下がおいでになつて、ねぎらひの言葉をかけられるのは、例年のしきたりである。
 侍従の紹介のことばのあとで、まづ、召人に向かつて、ねぎらひのお言葉があつたのち『あの歌は、どこでどういふ気持で作られたのですか』と陛下がお訊ねになる。それに史は、りんとした声を張つて、なにかと答へてゐらつしやる。わたしは、このお二人の問答を、ちよつとはなれたところからききながら『うむ。これは天皇家との長いいきさつの、いわば和解の風景かも知れない』と思つて、あとになつてから、そんな感想を、選者の一人である武川忠一に、語つたものであつた」(『斎藤史全歌集』平9)。
 以下、『風翩翻』より。

 ぐじやぐじやのおじやなんどを朝餉とし何で残生が美しからう
 胎内に炎を充たし生みたるは青透きとほる磁といふ器(うつは)
 充分に生き尽したる顔をして蝉も蝗も死にてゐたりき
 蛇行する河をますぐに整へし護岸に春を青むものなし
 死は断じて鴻毛よりも重ければ 尊厳死認む・認めず
 往復の切符を買へば途中にて死なぬ気のすることのふしぎさ
 生き残ることは死を待つことと言はざれどみな心得て養老病舎
 日常の瑣末大事に見上ぐれば一刀に断ちしごとき半月
 冬茜褪せて澄みゆく水浅黄 老の寒さは唇(くち)に乗するな
 明日はまた心起こしてもの言はむために寝がての肥後の赤酒
 獣園を出でてよろめく 尾の失せて二足歩行のもののひ弱さ
 坂道を急(せ)かず転(ころ)ばず下ることさしづめ今の活路なるべし
     山国に住む事五十年
 残生の父が身を置きしこの場所は幾重遮(さへぎ)る山囲(かこ)む国
 わが上の九十年を流れたる月日痕跡(あと)なきことのやさしさ

 堅確な写実と健全な批評精神、滑稽諧謔を秘めた鋭い人間観察。歌はすべて年代順(年齢順)に配列されている。俳句と同様、短歌もまた自伝であることを示している。
 平成14年4月26日、逝去。93歳2か月。遺歌集『風翩翻以後』より。

 つねに何処かに火の匂ひするこの星に水打つごときこほろぎの声
 遠からず来る死われには見えそめて人には見えぬその距離 無限
 山国のたためる山の襞越えて去るをよろこべ死後のわが魂
 右胸部に腫瘤剔出痕のある老女死体となるべしわれは
 死の水位しづかに迫りくるごとき夜霧外壁を這ひのぼりくる
 針に探る静脈いよよ細くして秋の夜寒となりて来にけり
 夢すぎて悲喜すぎしとも言ひかぬるこの世重たき水流れをり
 継ぎ目なき今日明日にして重ねゆく死への時間のほのかに冥し
 この窓の内にて死なむ 病室のなじみて白き何もなき壁
     遺詠/なにしろ九十三歳になって、自分のうたさえあやしくなって
     しまった。そばに居てたすけてもらわなければわからない状態であ
     る。四月七日 斎藤史

 ひとけなき上階に来て花を見ることのさびしさ縁の切れて

 長男斎藤宣彦の「あとがき」にいう。
 「入退院を繰り返すようになってからは、入院用荷物の中に原稿用紙と使い古した4Bの鉛筆が必ず入っていた。そしていつもの6階の病室のベッドでは、身を起こして、盆地の遠くに光る千曲川を、黙って長い間見ていたかと思うと、もそもそと枕元の原稿用紙と鉛筆に手を伸ばす」。
 最晩年まで創作活動をつづけた聡明磊落な作家魂。短歌のこころとことばへの希求を持続したひとの、豪爽な余韻にひたるばかりだ。

img0832.jpg
『風翩翻』箱(2000年12 月10日 不識書院)


風翩翻 はるか虚空にうたふらし わがみづうみの
はつか彩(いろ)ふは   斎藤 史





Category : 斎藤史
Posted by sekiryusha on  | 3 comments  0 trackback

今月の一句 <神無月>


  峠見ゆ十一月のむなしさに    細見綾子

 『冬薔薇(ふゆそうび)』所収。昭和21年、39歳の作。ふるさと丹波(兵庫県青垣町)と但馬の国境の峠を詠んだ句、と自註にあるが、読者は心にのこる峠の名を思いうかべればよい。狩勝峠、美幌峠、三国峠、雁坂峠、麦草峠、野出(のいで)峠・・・。
 「十一月のむなしさ」には、大気澄みわたる初冬の虚無と虚脱感があり、太虚、空無などの語を連想する。
 作者は、ながい寡婦生活のあと、22年11月、沢木欣一と結婚、25年、男児出産。31年、金沢より武蔵野市境南町に転居。充実した生活をおくることになる。
 境南町の家の庭には、丹波から移植した樹齢100年の山茶花が、季節ごとにおびただしい花を咲かせていた。
 「わたくしは、立冬ということばが大好きです」。
掘炬燵をかこんで談笑したその家も、いまは姿を消してしまった。

     山茶花に団欒の日のありしかな  赤榴子

img002.jpg


Category : 十一月
Posted by sekiryusha on  | 0 comments  0 trackback
該当の記事は見つかりませんでした。