石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

萩あかり –大野林火–

 学生時代に「濱」へ投句したことがある。「石楠」時代の大野林火の後輩八木絵馬(やぎえま、本名毅<つよし>)にすすめられたためだった。林火第6句集『白幡南町』(昭33・11、琅玗洞製作・近藤書店発売)の広告が誌上に毎号出ていた。発行所に申し込んで入手した。林火は50代半ば。金沢の四高から、東大経済学部を卒業。神奈川県立商工実習学校教諭を44歳で辞め、昭和28年4月より32年1月まで「俳句」編集長をつとめた。
 後年、私は俳句関係の編集に携わることになり、林火の世話になったが、「濱」投句のことは話さなかった。当然のことながら、林火も無名の一投句者のことなど知るよしもなかった。
 「濱」は、昭和21年1月、林火(41歳)により創刊。「発刊に際して」で次のようにいう。
 「『濱』は私を中心とするグループの機関誌である。むづかしいことはいふまい。―濱といふ語感の持つあかるさ、おほらかさ、ひろさ、きよらかさをそのままその作品に具現したいと念じている。(林火)」
 「濱」平成25年6月号に、2代目主宰松崎鉄之介の「『濱』終刊について」という2頁の文章があり、8月号(通巻812号)をもって同誌を終刊することを伝えている。林火没後31年で「濱」終刊。これは、「岐路に立つ俳句結社」という新聞記事(平25・7・17「朝日新聞」、宇佐美貴子記者)にもなった。この記事にはないが、今夏、石田波郷創刊の「鶴」が星野麥丘人の死(平25・5・20、88歳2か月)により鈴木しげをに継承され、阿波野青畝創刊の「かつらぎ」は森田峠の死(平25・6・6、88歳8か月)により子息森田純一郎が後継主宰となった。
 結社の主宰者は、その去執と後継者のことをつねに念頭におかなければならない。

 大野林火といえば、すぐに思いうかぶのが、第一句集『海門』(昭14・9、交蘭社)の次のような句だ。

     鳴き鳴きて囮(をとり)は霧につつまれし  大野 林火
     本買へば表紙が匂ふ雪の暮
     燈籠にしばらくのこる匂ひかな
     白き巨船きたれり春も遠からず
     子の髪の風に流るる五月来ぬ
     春塵の衢落第を告げに行く
       鈴木鵬于と伊良湖畔に遊ぶ
     潮遠く流れ椿も実となりぬ

 「燈籠に」の句について、八木絵馬は次のように鑑賞している。
 「昭和十年作。作者は前年末に三歳の長男を失い、その後まる三か月とたたないこの年の三月に妻を失った。そうした悲痛なうちに迎えた新盆のときの感慨を込めた一句である。(略)ろうそくは燃え尽きると、灯が消えたあとにかなり強い匂いが出て、しだいにうすれながらあたりにただよう。(略)『しばらくのこる匂ひ』に深い余情がある。」(『日本名句集成』平3、学燈社)
 『白幡南町』以前に、『冬青集』(昭15)『早桃』(昭21)『冬雁』(昭23)『青水輪』(昭28)が刊行されている。

     さみだるる一燈長き坂を守り    林 火(『冬青集』)
     坂に見る埠頭夕焼けてゐし晩夏
     ともに裸身ともに浪聴き父子なる     (『早 桃』)
     蝉時雨森ふかく海入りこめる
     あをあをと空を残して蝶別れ
     冬の夜や頭(づ)にありありと深海魚
     冬雁に水を打つたるごとき夜空      (『冬 雁』)
     とほるときこどものをりて薔薇の門
     妻子らの寝ごろや月の駅に立つ
       豊川鳥山美水居にて
     ねむりても旅の花火の胸にひらく
     鶏頭を抜けばくるもの風と雪       (『青水輪』)
     鳥も稀の冬の泉の青水輪
     いや白きは南風つよき帆ならむ
     青空ゆ辛夷の傷みたる匂ひ

 林火俳句は写実の凄みよりも、抒情的傾向がつよい。しらべは柔らかく、句意は平明である。動詞の多用は「石楠」の伝統だ。

 『白幡南町』は、昭和27年8月に新築転居した横浜市神奈川区白幡南町92番地の地名にちなんで名づけられた。
 
     風立ちて月光の坂ひらひらす   林 火(『白幡南町』)
     手毬唄きこゆ生涯の家と思ふ
     飛騨涼し北指して川流れをり
       浅間和讃
     和讃終へし夏満月の媼たち
     しづかにこころ満ちくるを待つ牡丹雪

 白幡南町の林火の家は、権兵衛坂という長い急坂を下りきったところにあった。昭和46年、『現代俳句大系』(全12巻)巻末の時代概説の執筆依頼のため、初めてこの家を訪ねた。8畳の和室の中央に机が置かれ、和服姿の林火(67歳)は、今から思えば年よりも老けて見えた。この年3月より社団法人俳人協会会長となる。
 『大系』の時代概説は、林火の博識と探求心によるすぐれた昭和俳句の通史となっている。第1巻は「昭和俳句の黎明」、第2巻は「新興俳句・四S以降」というぐあいに、時代の流れにそって作品を紹介し、現代俳句の啓蒙をも意図していた。几帳面な林火は、万年筆の細い小さな字で、毎回、締切に遅れることなく書いてくれた。原稿には、きまって激励の私信が添えられていた。
 「暑いのに御苦労様です。順潮な出来、敬服しています。私なども貴下の熱意にひきずられてというのが本音です」。
 「いよいよ大系も終りに近づきましたね。御苦労のことと存じます。私の周囲のものも皆よろこんでいます。これは全俳人の声でしょう。(略)全部すんだら、ゆっくりお会いしたいものです」。

 『白幡南町』で注目すべきは、群馬県草津・栗生楽泉園の合同句集『火山翳』(昭30・12、近藤書店)を刊行、出版記念のため当地を訪問していることだ。

       句集『火山翳』出版記念のため近藤書店
       主ともども草津楽泉園へ行
     雪眼に沁み風は山より一筋道   林 火(『白幡南町』)
     キリストに窓越えせまる雪の量
     雪に眼がいきいき誰も欠けず逢ふ
     炉に足を焦がすな雪は積むばかり
     ばうばうと雪昏し癩の家ちらばる
     昏くおどろや雪は何尺積めば足る
     雀色時雪は光輪持ちて降る

 最後の句について、林火は、「雀色時は夕暮、あたりが雀の羽色になるとき。一つ一つの光りの輪を伴う雪片は光明であった。化石らとともに仰いだ」と自註する。
 ハンセン病といえば、舟越保武の彫刻「ダミアン神父」とエッセイ「病醜のダミアン」の強烈な印象が忘れられない。

 林火生前最後の句集『方円集』(昭54・3、角川書店)は「俳句」編集時代に私が出版を担当した。昭和48年69歳から53年74歳までの作品461句を収録する第10句集。言い古されたことばだが、老境自在の作品が並び、俳句は老いの文芸という林火の信条を裏づけている。

     日向ぼこ仏掌の上にゐる思ひ    林 火(『方円集』)
     満齢古稀さくらのもとにけふ一日
       句集『山国抄』出版記念会
     僧のごと端坐すずしく盲化石
     梅匂ひ白雲遊ぶ方一里
       吉野にて
     落花舞ひあがり花神の立つごとし
     おん僧と見上げて朴はすずしき木
     山々のみな丹波なる良夜かな
     大綿や昔は日ぐれむらさきに
     夕焼川あはれ尽して流れけり

 村越化石の『山国抄』(昭49・8、濱発行所)は第14回俳人協会賞を受賞。化石は大正11年12月生まれ。昭和16年、草津楽泉園に入園、妻帯。林火の『冬雁』に感銘、「濱」入会。昭和45年、失明。上掲の林火の句を序句とする『端坐』は蛇笏賞、『筒鳥』は詩歌文学館賞を受賞した。林火の人柄を思わせる稀有な師弟である。

 林火は昭和57年8月21日早暁、永眠。78歳4か月。遺句集『月魄集』(昭58・3、濱発行所)は、胃の摘出手術をへて、衰弱してゆくわが身をしずかに詠っている。

     不勝簪杜甫より老いて柿啜る   林 火(『月魄集』)
     死仕度子のことに尽く暮春かな
     その夜暑し思ひ詰めては死に到る
     いくばくの余命を得たり更衣
       飲食を許されて
     新茶一滴残る胃に享け生き得たり
     晩涼のさびしや痩せるだけ痩せて
     新豆腐一切れに足る餉なりけり
       八月十七日
     先師の萩盛りの頃やわが死ぬ日
     萩明り師のふところにゐるごとし

 「先師の萩」の句について、松崎鉄之介の註がある。
 「筆記具を持って来いというので、先生の枕頭にはべった。口述するから書けという。そしてこの句を最初に読み上げた。私は手が震えて、『死ぬ日』がはっきり聞きとれず汗が流れた。」(『脚註大野林火集』平2・2、俳人協会)。
 命終の句は、だれにでも詠めるわけではない。最期の意識混濁の手前で踏みとどまって一句をなすことは、一期一会のこの世への愛惜の別辞だ。林火の強靭な作家魂に感嘆するばかりである。
 山本健吉に、「余情残心―大野林火の俳句―」(昭60・4「濱」)と、「『月魄集』と林火の晩年」(昭62・8「濱」)という二つの林火論がある(ともに『俳諧常住』所収)。健吉は、林火の句の特色として、「匂い」「余情」「残心」「余韻」などをあげ、「氏ほど時流に流されず、自分に適った道を進んできたひとは少ないと思った」という(「余情残心」)。また、『月魄集』における、「老年の中の諦念ともいうべき静かな境地を、作者が深めているさまに感じ入った」と賛えた(「『月魄集』と林火の晩年」)。

 臼田亜浪の「石楠」創刊に協力した大須賀乙字は、やがて袂を分かち、二句一章論を作句の基本とした。一方、「“親方(マイスター)”でなく“永遠の徒弟”であり、作家としては修行時代(レールヤーン)と遍歴時代(ヴァンダヤーン)を死ぬときまで続ける底の人」と篠原梵が評した臼田亜浪は、「俳句は一句一章の詩たるべし」と主張。林火は、この亜浪の師風を信奉しつつ、みずからの世界を確立した。
 「濱」終刊を機に、あらためて林火の遺業を再読し、風雅の一筋を貫いたひとの潔さを追懐している。

      林火忌の温容褪することあらじ   赤榴子

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       大野林火(「俳句」昭和50年12 月号口絵より)

     残る露残る露西へいざなへり     大野 林火




Category : 大野林火
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