石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

まことの花  –鈴木真砂女−

 平成25年3月14日は、鈴木真砂女没後10年目の忌日となる。「破乱の恋、俳句に託す」、「恋の情念と切なさ詠み続け」、「奔放な人生を俳句に」、「女流俳人最長老/銀座の女将」など、三大紙が写真入りで報じた、やや興味本位の真砂女像も、10年の歳月に洗われて、その真価が見直されるべきときだ。
 作家は、その死とともに忘れられてゆく宿命を負っている。忘却から故人をよみがえらせるものは、語り部たちの顕彰以外にない。本山可久子『今生のいまが倖せ… 母、真砂女』(平17・2、講談社)は、母真砂女とともに、自らのことも包み隠さず書いて、希有な文才を披瀝した快著だった。瀬戸内寂聴は帯文で、「新劇女優の一人娘可久子さんの書いたこの本こそは、真砂女の人間性と芸術の深奥に迫った絶品であろう」と推奨している。同じ本山可久子編『脚註 鈴木真砂女集』(平21・11、俳人協会)は、「春燈」同人など27名による300句の鑑賞。「あとがきに代えて」の末尾に「文責 西嶋あさ子」とある。西嶋の句集『的皪』(平25、角川書店)には、<脚註『鈴木真砂女』刊行/冬麗や万祝真砂女誕生日>のほか、真砂女追懐句がちりばめられていた。
 
 私は、真砂女の本を4冊編集した。

  『銀座に生きる』平成元年4月20日、富士見書房
  『鈴木真砂女読本』平成8年8月10日、角川書店
  『句集紫木蓮』平成10年11月15日、角川書店 
  『鈴木真砂女全句集』平成13年3月31日、角川書店

 手前味噌だが、真砂女最初のエッセイ集『銀座に生きる』の帯文を再録しておく。
 「今生のいまが倖せ衣被 真砂女/房州の明るい海辺の町の旅館に生い立った多感な少女がたどる波乱の人生。愛憎流転のドラマと銀座『卯波』開店三十余年の哀歓を赤裸々に綴った感動の半世紀。著者八十二歳、銀座の路地で人の心に灯をともす」。

 同書の出版祝賀会が、5月19日夜、丹羽文雄、近藤啓太郎、小倉昌男らを発起人に東京會舘隣の東商スカイルームで行われた。出席者150名、挨拶が長引いたが、「料理の鮮度が落ちる」と促され、ヤマト運輸会長の音頭で乾杯、と翌日の新聞が写真入りで報じた。

 真砂女が『紫木蓮』で第33回蛇笏賞を受賞したのは、平成11年6月のことだった。選考会は同年4月13日、飯田橋のホテル・エドモントで行われた。この日のことを、『銀座諸事折々』(平12・3、角川書店)につぎのように書いている。
 「四月十三日は、啄木忌である。強い風の中こもっていた夕方、角川書店より電話とのこと。受話器をとると、鈴木豊一氏の声で蛇笏賞受賞のお知らせであった。(略)痛い腰をさすりながら、まず娘に電話した」。
 『紫木蓮』の奥付発行日11月15日は、あと9日で満92歳を迎える日だった。収録作品の取捨や校正の打ち合わせは、店が開く前の卯波の小部屋で行った。命のつぎに大事なものという大判の句稿ノートを脇において、作品のさしかえや推敲をした。
 「孫の宗男が、習いたてのワーブロで打ってくれましてね」
という句集原稿は整然として、読みやすかった。多すぎる句数をいかに減らすか。自己模倣や類想と思われる句、愚痴や繰りごと、あるいは甘い恋の句は惜しげもなく捨てた。推敲もてぎわよく、真砂女が多用する季語「柳散る」が「柳箸」に変更され、仲秋の句から新年に変身する。

     愚痴すでに吐きつくしたる柳箸     鈴木真砂女
     得しはひとつ捨てしはあまた柳箸

 真砂女の柳箸の句は、『紫木蓮』のこの2句のみである。
 受賞決定の翌日、江戸川区北小岩の老人保健施設・ビーバス成光苑に真砂女をたずねた。腰痛のため救急車で入院ののち、この施設に入って50日めだった。そのとき撮った真砂女と本山可久子とのカラー写真を見ると、ターコイズブルーのネックレスに白いカーディガンをはおったさっぱりとした容姿は、50日も病臥した人とはとても思えない。

     看とらるる身となり果てし鳥雲に     真砂女
     花冷えや言葉少なき二人部屋  
     花衣つひに着ざりき見せざりき
     四月馬鹿病衣のボタン掛け違ひ
     爪切つてもらふも春の愁ひかな

 成光苑での無聊を詠んだものだ。

 蛇笏賞の贈呈式と祝賀会は平成11年6月30日、東京會舘で催された。私は来賓の瀬戸内寂聴をパレスホテルへ迎えにいった。成光苑から車椅子で可久子と一緒に出席した真砂女は、登壇のとき、ちょっとつまずいた。受賞者挨拶で、開口一番、こんなことを言った。
 「むかしは男によろめき、今日は絨緞によろめきました」
 会場が、どっと湧いた。壇上の真砂女は、直立して賞状を受けとり、椅子に座って挨拶した。腰痛をこらえ、笑顔をたやさなかった。
 翌日、成光苑の真砂女から電話があった。
 寂聴から腰痛快癒祈願の「般若心経」の写経一巻と、授賞式用の衣裳一式を贈られた、受賞挨拶ではまずそのお礼を言うつもりだったが、満場の笑いですべてを失念してしまった。寂庵へとんでいってお詫びとお礼を言いたいが、それもかなわない―。
 私は代わりに、真砂女の切情を伝えるべく、寂聴あてに丁重な手紙を書いた。

     六月や抱きてよろめく賞の花     真砂女

 真砂女の来歴については、虚実とりまぜて、新聞や雑誌の記事、あるいは小説に書かれている。ここでは、真砂女自筆の資料から要点のみを書きうつしておく。
 「姉の死後その遺句集出版につき、昭和11年大場白水郎を知り、主宰する『春蘭』に所属。『春蘭』はその後『縷紅』と改名し、昭和18年廃刊になるまで投句をつづける。戦後、久保田万太郎主宰の『春燈』発刊を知り昭和23年より投句。万太郎急逝につき、安住敦『春燈』の主宰となり、師として薫陶を受ける」。
 作句信条は、現在只今の境遇を穏やかに、素直に詠むこと。
 愛着のある自作は、
     あるときは船より高き卯浪かな     真砂女
     羅や人悲します恋をして
     鯛は美のおこぜは醜の寒さかな
     帯ゆるく締めて故郷の居待月
     砂噛んで果つるほかなし秋の波

 真砂女が米寿を迎えた平成6年12月3日、東京會舘1階の日ごろレストランとして使われている場所を会場に、角川書店主催の祝う会が開かれた。祝辞はヤマト運輸会長の小倉昌夫、山本海苔店会長の山本恵造、NHKエディケーショナル・チーフプロデューサー歌田雅哉、俳文学者井本農一など。余興では中原道夫の美空ひばり「みだれ髪」のうらごえが玄人はだしで、一同、嘆声をあげた。花束贈呈は曾孫の斉藤可奈。私は司会として、最後に、予定になかった本山可久子にスピーチを頼んだ。めり張りのきいた、よく通る声に全員が聴きいった。
 この会で、真砂女の気位をみる思いがした一件がある。会の後半、三橋敏雄など俳人の祝辞がつづいた。中村苑子が壇の近くに立っていた。苑子はスピーチのリストに入っていなかった。苑子の祝辞はなくてよいのか、と真砂女にきいたら、
 「苑子さんは、いいの」
と一蹴した。二人はともに万太郎門だが、真砂女はつねに先輩としての矜恃をくずさなかった。
 卯波で、「おかあさん」などとしきりに呼びかける客に愛想よく接する真砂女の、内に秘めた作家魂と自恃の堅固さをみた。これは終生変らない彼女の姿勢だった。

 『紫木蓮』から好きな句を引く。

     来てみれば花野の果ては海なりし     真砂女
     何ごとも半端は嫌ひ冷奴
     萩刈りしこの日指輪を娘(こ)に譲り
     魚河岸の人波に立つ淑気かな
     蜆汁死よりも老いを恐れけり
     雪女足手まとひの子は持たず
     戒名は真砂女でよろし紫木蓮
     オランダ坂帰燕親子で仰ぎけり
     一人にも湯気たちのぼる初湯かな
     九十年生きし春着の裾捌き
     しぐるる夜客の一人に寂聴尼
     涅槃西風銀座の路地はわが浄土
     雁と別れ人と別れて残るもの
     関東平野梅雨に隠れてしまひけり
     盆休み無き一灯を点じけり

 万太郎、敦の系譜につらなる境涯詠、市井哀歓のうたである。
 『紫木蓮』以後は、成光苑での生活がつづき、俳句の世界も狭くなる。つらいことだが、創作には潮どきがある。『紫木蓮』以降の作品は、『季題別鈴木真砂女全句集』(平22・12、角川学芸出版)の巻末に428句が収められている。その中から若干を引く。

     痛いよ痛い、春あかつきの空(くう)を掴み   真砂女
     救急車春暁を突き破りけり
     葛飾に病養ふ麦の秋
     メラメラと沖が燃ゆるよ初茜
     雪の旅親子の情をまざと知る
     女将われ見る影もなく秋を病む
     病室に眺めるだけの春着かな
     生涯を恋にかけたる桜かな

 「誠の花は、咲く道理も、散る道理も、心のままなるべし。されば、久しかるべし」
 『風姿花伝』の一節だ。
 斎藤史につぎの歌がある。
  老いてなほ艶とよぶべきものありや花は始めも終りもよろし  史
  生き残ることは死を待つことと言はざれどみな心得て養老病舎

 私の手帖には、真砂女のことが、記録がわりの句としてメモされている。

     九十の真砂女が鵜飼見てきしと     赤榴子
     卯波寄す真砂女生家に楚々と句碑
     羅の真砂女に空茶侘びらるる
     ところてん卯波の昼のくらがりに
     句集稿繰りごとを捨て爽やかに
     波郷忌の華やぐ真砂女萌黄いろ
     春浅き真砂女の弱音ききゐたり
     美しき流離ことほぐ師走かな
     きぬかつぎ真砂女の噂とだえけり
     鴨引くや真砂女の病篤しとも
     なげかひの路地の春燈忘れめや
     寒の雨銀座卯波の消ゆる夜の

 卯波はいま、孫の今田宗男によって、銀座1丁目で営まれている。
 真砂女の葬儀・告別式は平成15年3月20日11時半より13時まで、護国寺・桂昌殿で行われた。その年の秋、本山可久子から形見分けとして真砂女の白い夏帯が手紙とともに送られてきた。きれいにクリーニングされた「汚し屋さん」の帯は、真砂女を偲ぶ何よりのよすがとなっている。

     夏帯や運切りひらき切りひらき     真砂女

 平成25年2月18日夜、新国立劇場小劇場で、劇団朋友第43回公演「真砂女」を観た。脚本・瀬戸口都(文学座)、演出・西川信廣(文学座)、美術・朝倉摂。真砂女役は藤真利子、語りを本山可久子。総勢19名の配役はみな熱演で、涙と笑いの真砂女の半生がみごとな芸術作品となった。
 大団円は病院のベッドに横たわる96歳の呆けた真砂女。一人娘に見守られながら永い眠りにつく。藤は、老いとは、死とは、という万人の直面する末期を、飄々と演じた。語りの可久子は、天に向かって「おかあさーん」と呼びかけた。

     さまざまに品かはりたる恋をして     凡 兆
      浮世の果は皆小町なり         芭 蕉

という『猿蓑』の名吟が、不意に口をついてでた。
 劇場を出ると、二十四節季「雨水」の名のとおり、冷たい雨が降っていた。歓喜の涙雨のようだった。


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銀座・卯波の路地(中央区銀座1丁目)



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なげかひの血脈  −車谷弘−

     風花に京寂びたる格子かな   司馬遼太郎

 車谷弘の『わが俳句交遊記』(昭51、角川書店)が芸術選奨文部大臣賞を受賞したのは、昭和52年3月のことだった。それから半年後の9月27日から29日までの3日間、銀座8丁目の吉井画廊で受賞記念の文壇俳句展が開かれた。掲句は、このとき、自筆色紙として出品されたものである。
     かざはなにみやこさびたるこうしかな
 かな書きにして読み下せば、流麗な調べがこころよくひびく。K音四つが、句調に軽いうねりをもたらす。京都には、時雨とともに、風花がよく似合う。司馬の小説の一場面を想像するのもよい。<立春や嘉兵衛の里の古いらか 遼太郎>とともに、私の愛誦句となっている。
 私の手帖には、司馬の句のほかに、会場でメモしたつぎのような句がある。

     羅の袂に光る小銭入れ         和田 芳恵
     さし潮やけふの芥に女郎花       中里 恒子
     元朝に閂(かんぬき)外す真直ぐなり  永井 龍男
     地のはてに地の塩ありて螢ぐさ     山本 健吉
     かにかくに終の栖や嵯峨の雪      瀬戸内寂聴
     またも夏蟻かけのぼる竹の空      田久保英夫
     子鰯も鯵も一塩時雨かな        山口  瞳

 車谷は、このとき寄せられた文壇・俳壇の著名人たちの色紙を、背丈ほどの屏風に仕立て、文藝春秋の役員室に飾って翫賞していた。この屏風には、網野菊、飯田龍太、尾崎一雄、風間完、滝井孝作、戸板康二、富安風生、中村汀女、松本清張、水原秋桜子らの色紙や短冊も並んでいたはずだ。あの貼り交ぜ屏風は、その後どこへ行ったのか。文藝春秋へ電話できいてみたが、事情のわかるものがおりません、という総務部の女性の答えだった。
 それにしても、これだけの人々の色紙が寄せられたことは、車谷が編集者としていかに作家たちの信頼を得ていたかを証するものといってよい。編集という激務のなかで、身を粉にして作家とつきあい、長年、文壇句会の裏方をつとめた。最も忙しかったときが、最もよく遊んだときだった、と車谷は述懐している。

 車谷からもらった手紙のなかに、巻紙に毛筆で書かれた一通がある。句読点を補って記せば、
 「昨日は失礼いたしました。そのせつお話ししようと思って忘れたのでこの手紙をかきます。『俳句交遊記』の一ページ目の裏に広告がきますと、活字がよみにくくなるので、出来たら裏へ広告がこないよう御配慮いただけたらお願いしたいなと思ったことでした。もっともこれは編集の都合の方が優先するので、たってというわけではありません。どうか大兄はそんなことかまわず御都合のいいようにお仕事は進行して下さい。笑い乍らお話してみようかナと思ったことを話し忘れたので書いてみたまでです。(昭和五十年)十二月五日 車谷弘」。
 表面はおだやかだが、有無をいわせぬ靭さがあった。
 車谷は69歳、文藝春秋専務取締役。私は39歳だった。
 誌面の見栄えや読みやすさばかりでなく、目次や新聞広告のつくりかたなど、車谷から学んだことはたくさんある。誌面づくりに細心の配慮と、なによりも愛着をもつことを身をもって教えてくれたのだった。
 そればかりではない。車谷が半世紀ちかく文壇、劇壇、画壇等の人々との交わりのなかから体得した知識と教養とを、後進に伝えたいという熱意をひしひしと感じることがあった。車谷の好きだった銀座の名店へ連れていってくれたり、料亭金田中の2階大広間での財界人の昼食会へ同行したり、貴重な社会体験をさせてもらった。
 軽妙洒脱な文章と同様、彼の話術にも高踏的な味わいがあった。芸術選奨祝賀会でのスピーチでは、はじめに、何を言いだすのかと聴衆をはらはらさせておきながら、一転、旧知の文部大臣海部俊樹をもちあげて拍手喝采をあびた。これも、一流の人々との交流から身についたものだったのだろう。

 雑誌連載を単行本にするときにも、手紙をもらっている。
 「さきほどは電話で失礼しました。私としては六十年この形式で文章をかいてきたし、社も指導してきたので、雑誌の場合はともかく、単行本の場合はこの形式をまもりたいと思います。私にとっては生涯にとってただ一冊の本かもしれないので愛着があるのです。あなたの方も同じように永年の形式をくずしたくないお気持はわかりますが、出来たらわがままをおゆるし下さるよう出版の方におねがいしてみて下さい。お互いに好みの問題でたいしたことではないようでいて、実はたいしたことなのでかくはお願い申上げる次第です」。
 たとえば、文頭の鉤括弧(かぎかっこ)の位置ひとつにしても、岩波方式、文春方式、角川方式と微妙な違いがあった。それらの決定は出版部の判断によってなされていたが、車谷の本の場合は彼の希望どおりでおしとおした。
 本の装丁も、みずからデザインした。表紙カバーの表と裏に、登場人物として40名の作家たちを列挙するという斬新なアイディアだった。40名の筆頭には、車谷が師と仰いだ久保田万太郎の名前がある。万太郎生前最後の句集『流寓抄』(昭33・11、文藝春秋新社)は、企画・装丁ともに車谷によるものだった。函いっぱいにペルシャ模様を配した装丁に、万太郎は度胆を抜かれたようだったが、満66歳の誕生日に見本が出来あがったことを喜んだ。車谷の内心の欣喜雀躍ぶりが、私には容易に想像できる。
 万太郎の処女句集『道芝』(昭2・5、友善堂)の序で、芥川龍之介が「東京の生んだ『歎かひ』の発句」と述べたことはよく知られている。嘆かいの血脈は、車谷にも継承されている。「交遊記」中の「湯豆腐」は、
     湯豆腐やいのちのはてのうすあかり     万太郎
の作句現場と作品背景が情感ゆたかに描かれている。
 本が出たばかりのとき、顔見知りの詩人中桐雅夫から20冊の注文を受けた。
 「この本は名著だから、友人たちに配りたいのです」
といって、絶賛した。

 「俳句」の昭和52年4月号から、『わが俳句交遊記』の続編として「俳句的アルバム」の連載がはじまった。20回つづけて、単行本にする予定だったが、52年11月号の8回で中断した。
 私は12月20日、お茶の水の順天堂大学付属病院へ見舞いにいった。ベッドに座って、すこし虚ろな表情にみえた。
 「どうしても、気分がおちつかず、書く気になれないのです。癌ではないと思うのですが、結核菌が出ないので、肺結核でもないらしい」
 医師も家族も、癌の告知を控える時代だった。
 昭和53年4月16日午前零時20分、永眠。71歳7か月。新聞の死亡記事は、密葬が終ったあとに掲載された。

 4月18日、伊東駅ちかくのお宅へ弔問にうかがった。この家のことは「俳句的アルバム」第1回の「大洪水」に詳しく書かれている。建築家で、加倉井秋をの俳句の弟子でもある清水一の設計による平屋造り。一目で、優雅な気品が感じられる。人に人格があるように、家にも家格というものがある。
 仏前には、十数個の個人名の生花と遺影、そして、
   大泉院釋文耀居士
という戒名がまぶしく輝いていた。
 手紙にあった「生涯一冊の本かもしれない」という予感は的中した。「俳句」53年7月号に車谷弘追悼として、つぎの文章が載っている。
  永井龍男 「一つ釜の飯」
  吉村昭  「御焼香」
  車谷よそ 「臨終まで」
「俳句的アルバム」をふくむエッセイ集『銀座の柳』が昭和55年6月、文藝春秋から出版された。「俳句」連載の最後となった「きぬかつぎ」にも、久保田万太郎が登場する。咳に悩まされ、病への懐疑をいだきつつ、万太郎について書くときの「文耀居士」の胸中が偲ばれる。
 半世紀ちかい交友をつづけた永井龍男が、跋文で「車谷君の書くものの特徴を、一口に云えば、角のとれた文章と私は思っている」と言い、「人物描写の名手」と称えた。

 車谷には『佗助』(昭46、牧羊社)『花野』(昭51、牧羊社)という2冊の句集がある。
 『佗助』では跋文として、中村汀女、江藤淳、山本健吉、飯田龍太が、作品を引きながら、その人柄を多面的に語っている。一言でいえば、もののあはれが根底にある、ということ。幼時実母と死別したこととも関連するかもしれない。芥川のいう「歎かひ」である。

 以下、愛誦句より。

     死者はみな仕合せならむ天の川     車谷 弘
     遅れきて佗助に眼のやりばかな
     老妓耳とほし桑名の春惜しむ
     雷すぎてなほ海昏し出雲崎
     河豚鍋や少女をつれし老作家
     陽炎の白骨と化し給ひけり
     敗戦の銀座に雁をみし記憶
     秋風や机上に何も置かぬくせ
     秋ふかし碑文撰みしひともなく
     万太郎眼鏡ふきをり初蛙       (以上、『佗助』)
     落花まふ庭にあるじの東門居
     白玉の甘き愁ひに旅惜しむ
     京にゐることのやすらぎ秋日和
     金屏に舞ふや静の杖と笠
     銀座の灯夜更にすみて秋深き
     花冷の火鉢をかこむ法事かな
     鰐口のひびきも露の山深き
     水巴忌の寺に竜胆とどけしが
     芍薬に井伏鱒二の書をかかぐ
     白地きて見送りくれし京都駅
     柵白く牧場とへだつ花野かな
     つれだちて月ふりかへる鷹ヶ峰
     次の間の闇も匂へり畳替       (以上、『花野』)
 

 編集者として向田邦子など幾多の作家を生みだした名伯楽は、文壇俳句会で作家の俳句的能力を引きだした功労者でもあった。70歳を境に、これから本格的に文筆活動に入ろうという矢先、病魔に斃れたことの無念さがあらためておもわれるのである。

          春泥や偲べばひとの耀ひて     赤榴子


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『わが俳句交遊記』カバー(上は著者直筆、下は実物)




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