石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

異端と正統 −赤尾兜子−

 赤尾兜子(とうし)の生前最後の句集『歳華集』は、昭和50年6月10日、角川書店より出版された。兜子から句集出版の依頼をうけたのは前年の秋だった。序文「焦げたにおい」を司馬遼太郎、跋文「赤尾兜子の世界」を大岡信、別綴じの栞「神荼(しんと)吟遊」を塚本邦雄が執筆。三人とも、兜子がみずから直接に承諾を得ていた。原稿はおおむね期日どおりに入稿し、朱筆の多い著者校も順調に進んだ。
 司馬遼太郎の序文は、大阪外国語学校以来の心友・兜子への深い理解と親愛に充ち、情理をつくしてその作品と人となりについて述べている。
 越後の旅をともにしたときのこと。その往復の時間は、ほとんど俳句論に終始する。兜子の句は、作るよりも発するようであり、「雷電に撃たれるような感覚の発作があるときに、その発作のあとに句が落ちているというような感じであり、そのことが、かれの資質のどのあたりから出るのか、せめてその焦げあとのにおいでも嗅げないかと思った」。
 旅の最後の夜、越後湯沢の宿で、二人で遅い晩めしを食っていると、廊下掃除の係の婦人三人が座に入った。彼女たちが唄をうたいだすと、兜子も和した。やがて掃除婦たちは行ってしまい、二人だけの酒にもどる。そのとき、どうしたはずみか、兜子が急に哭きだした。
 「これは、俳句だと私は理解しようとした。俳句という感情現象が、兜子の中でいま起っているのだと理解するほか、この変な間(ま)の中に居あわせられてしまっている自分が持ちそうになかった。たしかに、ああいうものが兜子の俳句なのであろうと私はいまでもおもっている」。
 「文芸としての俳句の伝統からいえば、およそ異った化学成分のものを兜子は、押しこんで破裂したり感電したりするのもかまわずに、それを押しこんだ。やがて兜子は、俳句という形式に押しこむことによっておこる化学変化や物理変化を美として見つめなおす精神を、伝統の俳句とはべつの場所で確立した。
 その精神の発作について、私はたまたま兜子と酒をのんだおかげで、焦げたにおいだけでも嗅いだような感じもする」。
 文芸における異端と正統についての洞察が、兜子俳句に即しつつ具体的に語られている。兜子の文献資料としても貴重なものである。

 句集刊行とほぼ時を同じくして、昭和50年6月29日、神戸市の生田神社会館で『歳華集』出版祝賀会が盛大に催された。出席者350余名。司馬遼太郎、陳爵臣、梅原猛、小野十三郎、田辺聖子、白川渥、高安国世、安田章生、永田耕衣、榊莫山、須田剋太、多田智満子など、関西の主要な文化人および俳人と、東京の大岡信、吉岡実、高柳重信らが一堂に会する豪華さは、一俳人の祝賀会としては空前絶後のことと思われた。
 後に「渦」の後継主宰となる音楽家恵以夫人のピアノ演奏と独唱が芸術的雰囲気をかもしていた。また、書家でもある兜子自筆の俳句の展示には、その大きさと文字の流麗さとがつよく印象づけられた。
 閉会ちかく、挨拶に立った兜子が、壇上で絶句。会場は水をうったように静まりかえった。私はかたずをのむ思いで「哭く兜子」を見つめていた。
 この祝賀会が契機となって、兜子と司馬遼太郎の対談「空海・芭蕉・子規」(昭51・5「俳句」)が実現したことで、私はこの比類なき作家の人柄に親しくふれることができた。

 兜子は、昭和16年(16歳)、「馬酔木」「火星」に投句、伝統俳句から出発した。戦後は新興俳句の系譜につらなる「太陽系」「群」「薔薇」などに参加、「渦」を創刊主宰し、前衛俳句の旗手とうたわれた。そして、『歳華集』のころにはふたたび伝統俳句へと回帰する。
 ひとりの俳人が、試行錯誤と自問自答の果てに作風の転換をはかることは珍しいことではない。「新しみは俳諧の花」という芭蕉の言葉を実践すべく、兜子は孤立無援の苦闘をつづけ、「第三イメージ」の方法を駆使して、前衛俳句の新境地をひらいた。

     秋来ると鼠がしのび泣けり壁   (『蛇』)
     必中の石つかみ立つ野分中
     鉄階にいる蜘蛛智慧をかがやかす
     音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
     広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
     愛する時獣皮のような苔の埴輪
     ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥  (『虚像』)
     轢死者の直前葡萄透きとおる
     空(から)井戸あり繃帯の鶏水色に
     戦どこかに深夜水のむ嬰児立つ
     ビルの宴彫氷の鳥溶けはじむ    (『歳華集』)
     機関車の底まで月明か 馬盥
     壮年の暁(あけ)白梅の白を験(ため)す
     霧の山中単飛の鳥となりゆくも
     帰り花鶴折るうちに折り殺す
       司馬遼太郎氏に
     先行の人になおあり蝉の空
     子の鼻血プールに交(まじ)り水となる
     みだれ白萩乳を銜(ふく)ます母若し
     薄氷にやどかりのいるささら波
     野蒜摘み八岐(やまた)に別れゆきし日も
     雲とも素(す)ともならぬもずくを煮る男
     鮭ぶち切つて菫ただようわが夕餉
     菜の花の茎浅海に在(あ)るごとし
     数々のものに離れて額の花
     ぬれ髪のまま寝てゆめの通草かな
       われ病む
     空鬱々さくらは白く走るかな
     大雷雨鬱王に会うあさの夢
     葛掘れば荒宅(こうたく)まぼろしの中にあり
     
 兜子は、抽象的な心象風景を詠むときも、日常身辺を句にするときも、あえてみずからを窮地に追いこみ、危うきにあそぼうとする。その果敢さは、ときに痛々しくみえることすらある。
 仔細に読めば、京都大学中国文学科の卒業論文のテーマだった中唐の夭折詩人・李賀(字は長吉<ちょうきつ>791~817)の詩句がさりげなく句中に詠みこまれ、漢語表現のひき緊まった効果をあげている。
 また、兜子の抽象句も具象句も、一見、些末主義とみえて、けっしてそうではない。兜子は「自作ノート」のなかで、俳句の日常次元を凡庸に表現するだらしなさを嫌っていた、と言い、若さを駆って、イメージの抽象性を考えた、それは具象から出られぬ写生へのアンチテーゼをふくんでいた、と述べている。

 『歳華集』以後の作品は、『赤尾兜子全句集』(昭57・2、立風書房)に「玄玄」として収録されている。『歳華集』の延長線上にありながら、塚本邦雄のいう「非愛誦性」は影をひそめ、自在への志向が窺える。

     みみづくの腋羽にふかむ樅の闇  (『赤尾兜子全句集』)
        われ病む
     はこべらや旧里にとどむ恨(うらみ)なし
     俳句思へば泪(なみだ)わき出づ朝の李花 
     初がすみうしろは灘の縹(はなだ)色
     密息や山の根に浮く春の虹
     ささなみの国の濁酒(どぶろく)酔ひやすし
        湖西鵜川 一句
     赤のまんまけさがけに負ふ石ぼとけ
     わが鬱と塵とどめざる名残空
     短日はさびし来る夜のおそろしき
     心中にひらく雪景また鬼景

 最後の2句は、死後の発表となった「雪中の鳰」15句(昭56・5「俳句研究」)より。

 「俳句」昭和55年8月号の口絵に、赤尾兜子の写真が4枚載っている。神戸市御影の自宅書斎とともに、神戸住吉山手の「うろこの館」でたまたま行きあった東京の大学、短大を卒業したという日航の研修スチュワーデス3人と一緒の写真がある。兜子は黒いポロシャツに白のスーツ姿。撮影は55年6月2日。この年3月、55歳の兜子は毎日新聞社を定年退職していた。「やがてこの三人も、海外線のスチュアーデスに育ち、空を翔ぶであろう。/いまの時代の若者、とりわけ女性は、神戸の街へファッションとおしゃれを求めにくる。/こういうのびやかな街に住みつつ、私はこれからも、ひろく俳句を考え、作らねばならないだろう」(兜子「神戸寸描」)。
 
 兜子は、昭和56年(1981)3月17日、午前8時5分、自宅付近の阪急電車十善寺踏切にて急逝。享年55。存命であれば81歳。早すぎた死といわざるをえないが、俳句の世界は死とともに完結する。死をもって定命とし、あとの評価は作品享受者に委ねる。その潔さが、鬱に悩まされた兜子の莞爾たる笑顔を想起させる。鬱々と空を走る白い桜が、時とともに浄化され、嬉々とした鎮魂の花びらに変身する。涙の谷から歓喜の栄光へ、という比喩が、兜子には似合うようにも思えてくる。衝撃的な死から31年、懐かしさはつのるばかりである。

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空鬱々さくらは白く走るかな 赤尾兜子

Category : 赤尾兜子
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