石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

わが佇つは時のきりぎし ―上田三四二―

 上田三四二が第3歌集『湧井』で迢空賞を受賞したのは昭和50年6月だった。その年の蛇笏賞は、石川桂郎。授賞式は市が谷の、私学会館で行われた。記念講演の角川源義は、食道癌の桂郎の俳句について、持ち時間をはるかに超過し、いっこうに終る気配がなかった。私は、早くまとめるようにと記した紙片を二度、源義に渡した。源義も肝臓癌の末期だったが、病名は伏せられていた。鬼気せまる熱弁だった。上田についての講演は、山本健吉。冒頭に、源義の渾身の桂郎俳句鑑賞をたたえ、「あと5分でおまとめ下さい」というメモを読みあげ、会場の笑いをさそった。
 この授賞式から4か月後、源義、桂郎ともに鬼籍のひととなる。
 式場から祝賀会会場への移動のとき、宮柊二が声をかけてきた。
 「桂郎さんは、みごとに波郷ばなれしましたね」
 宮に、波郷、桂郎、源義を詠んだ歌がある。

  久しぶりに波郷の墓を訪はんとすわれより一歳若かりしかな  
                    宮柊二(『忘瓦亭の歌』)
  まぎれなく桂郎の死を報じゐる新聞記事よ癌が勝ちしか
  桂郎が石田波郷の墓径にうつしくれたる写真も古ぶ
     角川源義氏(4首のうち2首)
  亡き君の今日の葬儀に参るなくベッドに臥して長く憶へる
  君に行き金を借りにき友二人の手段(てだて)つきたる歎きに因りて

 上田の『涌井』は、昭和41年(43歳)から49年(51歳)までの844首を収録。41年には結腸癌の手術をうけた。

  たすからぬ病と知りしひと夜経てわれよりも妻の十年老いたり  
                     上田三四二(『湧井』)
  死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きる一日(ひとひ)一日はいづみ
  つねうごく妻のにほひといふこともこころにぞ沁む病みてこもれば
  ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも
  ヘアピース夜の灯のもとにしづまれば妻を思ひ出のごとく思ふよ

 上田は京都大学医学部在学中の昭和22年(24歳)、京都の畑露子と結婚、翌年京大卒。妻をうたった歌は、『湧井』以後、最後の歌集『鎮守』まで、くりかえしさまざまに詠まれた。

 上田と飯田龍太との対談「蛇笏の文学と風土」(昭55・4「俳句」)は、山梨県境川村の山盧で行われた。早春の境川から遠望する南アルプスの雪嶺の連なりに上田は見入っていた。  
 上田は戦後すぐ、医学部の学生のころ、ナカニシヤという本屋で買った古い歳時記で<日に顫ふしばしの影や鶏乳(つる)む>という句を読み、はじめて蛇笏の名を知ったという。季語は「鶏乳む」で冬。
 蛇笏の<芋の露連山影を正しうす>をはじめとする自然詠のほかに、人事句の通人的側面を指摘、句をあげて、自説を展開した。
     
     閨怨のまなじり幽し野火の月   蛇 笏
     なつやせや死なでさらへる鏡山
     帯の上の乳にこだはりて扇さす
     秋冷のまなじりにあるみだれ髪

 また、晩年の、

     冷やかに人住める地の起伏あり  蛇 笏
     代々住みて隣保親しき餅の音
     人親しわきて家路の凍てゆるぶ

など、白雲去来の山中が、親和的な人間界をかかえている、と語った。
 上田と龍太とはこのときが初対面だったが、以後、蛇笏賞・迢空賞の選考委員として同席する機会が多くなり、君子のごとき交わりをつづけることになる。のちに龍太は、「遥かなる島のごとし」(昭62・7「短歌」)というエッセイで、上田の作品の人肌のぬくもりについて敬愛をこめて書いている。

 昭和59年7月(61歳)、癌研究会付属病院泌尿器科に入院。前立腺腫瘍。自筆年譜に「定命をさとる」とある。第5歌集『照徑』(昭60、短歌研究社)は、養痾臥床の日々を思索的にうたう。

  二人子はそだち用なき老の身のはなにあそべばはなの寂しき
                           三四二
  亡きわれの記憶のために妻を率てさくらにあそぶさくら寂しと
  死後にして出づべかりしを手にとれば生身(しやうじん)の泪この自著のうへ
  閑日をあらしめためへ一日(いちじつ)を両日として生かしめたまへ
  病人(やみびと)の介添として随くにさへ外出(そとで)を妻のたのしむらしも
  遺志により葬儀はこれを行はずふかくおもひていまだも言はず

 昭和59年10月、退院。この年、創作集『夏行冬暦』『惜身命』、評論集『この世 この生』を刊行。死への思索を深めてゆく。
 『鎮守』(平1、短歌研究社)は、生前に準備を終え、短い「あとがき」も脱稿していたが、遺歌集となった。昭和60年より63年までの463首を収録。ことごとく、いのちの絶唱といってよい。

  ふかき病(やまひ)みぬちにのみて野仏のそばゆくわれはあるき仏か  三四二
  生かされてひと年を経ぬ送火の山焼くる火を京に仰ぎつ
  二人子にむきて言ひおよびゆく言葉葬儀なきはふり戒名なき墓石
  わが佇つは時のきりぎし今生の桜ぞふぶく身をみそぐまで
  つひの日のわれにはあつき唇(くち)よせて迦陵頻伽の声をきかせよ
  わが死なば歎かひくるる誰かれとおもふこころの甘えをゆるせ
  老到る前(さき)に病みたるわが生のほそりを老につがしめたまへ
  永らへてことしまた聴くひぐらしのこゑ澄むかたにいざなはれゆく
  いつまでつづくこの静穏か朝の卓にパンかぐはしく二人あること
  ほととぎすまたみづひきの秋のはな四十年の祝婚のけふ
  六十年この一身は努めたり一身はかなし病みて力なし
      七月二十一日
  くるしければ起きて足もむ夜の明けにいまだ間のあるけふの誕生日
  ほがらかに日々ありくるるわが妻よ動けぬわれは声になぐさむ

 小説「祝婚」は死の二年前、昭和62年8月号の「新潮」に発表された。翌年4月、第15回川端康成賞を受賞。
 主人公「彼」と一つちがいの従弟の次女が京都で結婚することになり、夫婦で式に出席する。回想をまじえながら、綴れ織のように物語は進む。
 祝辞の番がきて、「彼」はマイクの前に立つ。
 「彼は自分の置かれている病後の身について触れた。病んでつくづくと知ったのは女房のありがたさだとも言った。
 『私は女房を拝んでいます。』
 おや、という顔にむかって彼はつけ加えた。
 『——呶鳴りながら、ですけれども。』」
 「彼」は上田自身、「妻」は露子のことだろう。文章の要諦は細叙省筆、とは島崎藤村のことばだ。上田の私小説には、饒舌をきらう節度と含羞とがある。短歌と評論と小説とは、一体のものだった。大げさなことをいうようだが、一貫するテーマは生とは何か、死とは何か。
 平成元年1月8日、永眠。遺言どおり、自宅での通夜と葬儀は無宗教で行われた。10日の通夜は線香のみを献じた。馬場あき子、岡井隆、島田修二、成瀬有、医師仲間の俳人井桁汀風子、短歌新聞社の石黒清介らが、親しく故人の思い出を語りあった。寒中さなか、珍しく4月並みという陽気だった。
 墓は、所沢市北原・所沢聖地霊園にある。墓石には「上田三四二/妻露子/之墓」と彫られ、露子のみ朱字。裏面の「平成元年六月/上田露子建之」も同様。墓につきものの墓誌はない。文学者とその妻の、みごとな自己完結をみる思いがする。

 先年、宇治への旅の折、宇治川を見おろす小高い丘の上の橋寺放生院で、上田の歌碑に出あった。

   橋寺にいしぶみ見れば宇治川や大きいにしへは河越えかねき
                           三四二

 『照徑』所収。歌会始の選者詠、題は「橋」。平成3年建立。上田最初の歌碑で、妻露子の尽力によるものという。やや小ぶりな碑は、歳月とともに風景にとけこんで、気品と風格がそなわっていた。上田のすべての歌がそうであるように、平明に叙して余情がある。『源氏物語』や『太平記』の記事をおもい、故人を偲ぶにはまたとない機会だった。


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       左より上田三四二、井桁汀風子、飯田龍太、鈴木
          (昭和55年2月23日、山梨県境川村小黒坂)



Category : 上田三四二
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