石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

花の証拠 —百合山羽公—

     海苔干すや町の中なる東海道      百合山羽公

 羽公第一句集『春園』(昭10、馬酔木発行所)の巻頭句。大正12年(19歳)の作。羽公は明治37年9月21日、浜松市伝馬町生まれ。いつも正面に大海ばかり見てきた海道ものである、と自らいう。

     海道を好みて走るいなびかり         羽 公
     海道に立塞がりし冬も去る
     桃咲くや海道の星みなうるみ
     海道も初こがらしに一転す
     海道のくらき昔の年の豆
     藁塚やもと海道の長丁場

 「海道」は羽公の格好の舞台だった。羽公の東海道は、遠州灘に沿って走る。名所旧跡、故事来歴の多いところだ。ふるさと賛歌は羽公俳句の魅力のひとつである。

 大正12 年、浜松商業学校を卒業して上京。高浜虚子、水原秋桜子、山口誓子らに会う。
昭和4年7月、「ホトトギス」雑詠の巻頭となったことはよく知られている。四Sの俳人たちが、たかし、茅舎、草田男らとともに巻頭を競っていたころのことだ。

     この鹿や人なれがほに袋角          羽 公
     むれ鹿にあゆみまぎるる鹿の子かな
     おしろいの剝げたる稚児も花まつり
     花盗人ちりくる花を仰ぎけり
     よしきりやよしふく風にまぎれざる

 大和へ旅行したときの作。作品発表翌月の「ホトトギス」雑詠句評会で、鈴木花簑は「おしろいの」の句について、稚児のおしろいの剝げているという一事を捉えて、花祭りの賑やかなめでたい気分を象徴的に表わしている、と評した。虚子は、「も」の一字に大変な力のあること、これをもし<花祭おしろいはげし稚児もあり>と言ったのでは少しも力がないとして、羽公の表現をたたえた。

 「ホトトギス」巻頭の2年後、秋桜子と行をともにして「馬酔木」に拠り、終生、師弟の黙契を貫いた。そのころの回想記「初心修業のころ」を「俳句」編集時代に羽公に書いてもらった。
     からすうり瓜人先生住ひけり            羽 公
も昭和6年の作。瓜人は羽公より6歳年長。俳誌「海坂」を共宰。ともに若き日の藤沢周平の俳句の師である。羽公による周平俳句評を引いておく。作者名留次は本名小菅留治を一字変えたもの。
 
    「桐の花踏み葬列が通るなり      留 次
 さんさんと明るい初夏の太陽が照りそそぐ丘の細道に夢のやうな紫いろに匂ふ桐の花が咲いてゐます。風鐸型の優美な紫の花はもう天上から地上に落ちて和やかな風情です。
 人の通ることも少ない丘や畑中のみちにひつそりとこぼれてゐる桐の花はまことに晩春から初夏への美しい景物詩の一つと云へます。そこへ急に賑やかな人影が登場してきます。それはうら悲しい葬幡や葬花などをささげた一列のつつましやかな里人の葬送の列です。異常な黒と白の配色の多い葬列が何の変哲もなく自然な行進の影を桐の花の匂ひこぼれてゐる美るはしい道にすすめてゆくのです。
 柩の通る下にも円かな桐の落花が見えたのですがそれにつづく人達の足の下にその花は踏まれ、やがて水の流れさるやうにこの一列の人達は通りすぎてゆくのです。この句のこころは葬列を悲しむ以上にもつと深い自然の実相を極はめて自からな在方で見透してゐる点にあります。平面的な桐の落花の風景に異常な人間臭い葬列を発見して躍動した作者の感覚を新しいと思ひ厳烈だと感じます」(昭28・7「海坂」)。
 もう一句、<軒を出て狗寒月に照らされる  留次>について、羽公は理解の弁を記している。「留次氏のこの作品から私は茅舎の寒月とは趣の異つた作者の心の拠りどころが見出されて、捨て難いのである。(略)リアルと云つてもあまりにも冷厳な情景に作者の慈悲の思がしみじみと注がれてゐる。見逃しやすい平凡な感じの句でありながら作者の感覚が鮮かに光つてゐる」(昭29・6「海坂」)。
 肺結核療養中の周平は、東京北多摩郡東村山町久米川ののびどめ句会所属。面識もない一投句者の青年に寄せる羽公の選評は、後進への激励とともに、市井の人情の温もりを指摘して、示唆的である。

 昭和49年6月、第3句集『寒雁』で蛇笏賞を受賞。

     行く年に憫笑さるるごとく居り       羽 公
     寒雁や一物もなき大干潟
     社会鍋古きラッパにやや勇む
     桃冷す水しろがねにうごきけり
     遠州灘冬の怒濤の二重打ち
     焼藷や曽て女給も純なりき

 「受賞の喜びの一つは、昔『雲母』で選をしばらくうけた蛇笏先生の名を冠した大賞であり」というとおり、羽公は昭和のはじめに「雲母」で蛇笏選をうけた。<望の月厨の妻にさしそめぬ  羽公>について、蛇笏は懇切な批評を記している(昭10『近代句を語る』)。

 羽公を浜松市有玉南町の家に訪ねたのは昭和55年7月、土用三郎の日だった。戦国時代の大合戦場三方ヶ原が指呼にあり、天竜川の支流馬込川が近い。家の前を国道152号飯田線が走る。白い甚平姿がよく似合う。

     甚平の小男の祖父偉かりき       羽 公(『楽土』)

は昭和50年、70歳の作。遠州人の質実な気風の祖父の姿が眼にうかぶようだ。平素は口数の少ない人だが、話柄が俳句に及ぶと回顧談が次々と出て、座を温かい空気がつつむ。
 「虚子の『厭な顔』はいやな文章だった。『左近を切つてしまへ。』を虚子は秋桜子のことではないといったらしいが、どうしてあれを書いたのか。『馬酔木』に走ったのは、若かったからできたこと。あと5年おくれていたら、決行したかどうか。」
 三河の歴史、民俗にくわしく、独自の見解をもつ。
 浜松駅前のうなぎ屋「酒万」でビール。うな重は細身を特別注文。<鰹船かへる砂丘も鼓動して  羽公>の句とカツオの絵入りの色紙が壁に掛かっている。かつては「馬酔木」の酒呑大関、いまは前頭、酒量を制限しているという。俳句回想録を書いてほしいと頼んだら、すべての依頼をことわっている、といわれた。
 改札口で二度ほど振り返り、白い開襟シャツ姿が飄々と人群れのなかへ消えていった。
 最後に、好きな句を引く。

     高くゆく雲と一日秋のセル       羽 公(『故園』)
     非常なる世に芋虫も生れあふ
     寒流として天竜も伏し流る
     白鳥のごときダンサー火事を見て
     雁のこゑ長き砂丘を伝ひくる     (『寒雁』)
     熊蝉の熱禱の声捨てて逃ぐ
     朝曇楽土さがしに毛虫行く      (『楽土』)
     鴨引きて放心のさま鳶にあり
     干柿の緞帳山に対しけり
     初鵙の切り出す声を待ちゐたり
     宝ものぺかと光りし熊手かな
     桐咲いて熱いぞなもし道後の湯
     老残の月日と言はず初暦
     素逝忌の雲の鈴鹿を越えにけり
     偕老の老妻の役障子貼る
     鷹渡る恋路ヶ浜はさびれけり
     竜天に瓜人十万億土かな     (『楽土以後』)
     老骨や兜かぶりに古パナマ
     リハビリの杖にもありし恵方かな
     枇杷葉湯ありて涼しき昔かな
     穴まどひ草の錦を凹めけり

 平成3年10月22日、永眠。87歳1か月。死の直前まで句作をつづけた。抑制のきいた市井哀歓と有情滑稽と。句はことごとく切なく懐かしく、在りし日の羽公を彷彿とさせるばかりである。『風姿花伝』にいう。「これ、目のあたり、老骨に残りし花の証拠なり」。

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百合山羽公(浜松市旭町にて)

梅ひらく超俗のひと遠州に      赤榴子

Category : 百合山羽公
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