石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

柔らかさと華やぎと  —飴山 實—

 飴山實(あめやまみのる)は、生前、5冊の句集を出した。

    『おりいぶ』(昭34・6・1、風発行所)
    『少長集』(昭41・1・20、自然社)
    『辛酉小雪』(昭56・11・22、卯辰山文庫)
    『次の花』(平1・6・16、角川書店)
    『花浴び』(平7・10・30、角川書店)

 生涯5冊の句集は、その名声に比して決して多い数ではない。
 『おりいぶ』という開放的、西欧的な書名は、「ゴッホ展で『オリーブ畑』を見たときにきめた」(後記)という。オリーブの実は秋の季語(花は春)。集中に「小豆島」としてつぎの2句を収める。

     沖の紺オリーヴの幹揺する旅      飴山 實(『おりいぶ』)
     オリーヴ摘む少女の肩を沖の船

 序文沢木欣一、跋文金子兜太。
 『おりいぶ』の後記は、のちの4冊の句集にくらべ、異常な長文である。
 「沢木、原子公平、安東次男、しばらくして復員してきた金子兜太、主としてこの四人の抒情にぼくの方が溺れていた」。
 「当時復刻された『芝不器男句集』はぼくの魂を吸いとるに充分であった」。
 「抒情も変質しはじめるだろう。論理に支えられた抒情に向って。今は過渡期だと思っている。楽しい句集でもなければ、不器男や茅舎のような詩集でもない」。
 俳人であり自然科学者でもある飴山の透徹した自己分析がおこなわれている。

 『少長集』は、衝撃的な句集だった。刊行直後、丸谷才一の文章をまねて、雑誌へ匿名記事を書いたことがある。
 A5判箱入り、本文133頁。1頁1 句組み、昭和34年より45年までの作品119句を収録。題簽は欧陽詢の「蘭亭序」から集字。本文活字は新宋朝体。装丁・造本の格調、収録句数の極端に少ないことなどが、著者の反時代的な志向を反映していて、爽快だった。1頁1句組みは、つづく『辛酉小雪』『次の花』でも実践されている。

     誰かまづ灯をともす町冬の雁       實(『少長集』)
     枝打ちの枝が湧きては落ちてくる
     うつくしきあぎととあへり能登時雨
     冬海の近くの溝を飯の粒
       わが転勤を送るとて欣一、飛旅子、柏ほか、遠く
       浜名湖につどひくるゝ
     十まりの顔にわかるゝ鳥曇
     釘箱から夕がほの種出してくる
     花の芯すでに苺のかたちなす
     榛の木のことにたのしき田植どき
     蚊を打つて我鬼忌の厠ひゞきけり
       オレゴン州コバリスにて
     昼の野火ためらふときはなまめける
     もの問ふと奈良の刈田へはひりゆく
     奥能登や打てばとびちる新大豆
     手にのせて火だねのごとし一位の実
     花芒能登は自在に畦まがり

 『少長集』出版のとき、飴山は44歳。静岡大学から山口大学へ転勤、新設講座を担当して2年め。『おりいぶ』の素材と声調とはうってかわって、ナイーブな感性が平明な言葉づかいによって、清冽な詩情と柔軟な華やぎを生みだしている。品格と知性と感性とが、新鮮な文学の世界を拓いた好例といってよい。

 『辛酉小雪』は、昭和45年から56年までの193句を収録。巻頭は、
     比良ばかり雪をのせたり初諸子    實(『辛酉小雪』)
 この句は、「俳句」昭和53年7月号の特別作品「比良ばかり」52句の巻頭句。私には忘れられない一句だ。飴山会心の作だったろう。後年、森澄雄の近江一連の句への挨拶のつもりだった、といっている。

     秤から堅田のもろこ跳ねて落つ     實(『辛酉小雪』)
     冴え冴えと鳶笛吹けり蕗の薹
     春の雪能登の岩海苔炙りつゝ
     羽賀寺をいできし水に種俵
     鮒鮨を買はむと越ゆる花峠
       秋吉台に摘める一束を師友に送るを研究室の
       倣ひとすれば、添へて
     ひと皿の肴となれや瘦蕨
     昨日まで卯の花くだし鞍馬川
     茫々と山も濡るゝか青山椒
     なめくぢも夕映えてをり葱の先
     杜少陵読む渋柿の花ちらし
     法隆寺白雨やみたる雫かな
     あをあをとこの世の雨の帚草

 飴山と山口市、秋吉台、萩市、島根県津和野町をまわったのは、昭和54年5月16日のこと。愛車を駆って、慣れ親しんだコースをゆっくりとめぐる。山口市大内御堀の自宅には、菜園があり、土に親しむことを楽しみとしていた。山口大学の応用微生物学教室では、白い実験着をまとった生物学者の風貌が板について、知られざる飴山の姿に親近感をもった。
 実験室で、ひとの健康にとって酢がいかに有益なものであるかを力説され、以来、酢を欠かしたことがない。のちに飴山は、「酢酸菌の生化学的研究」(昭63)で二つの賞を受けている。
 そのときの口絵写真に付した「実験室から」(昭54・9「俳句」)というエッセイに次の一節がある。
 「新奇であろうとするより新鮮であればよく、奇人でなく本人独自であればいい。
(略)新奇な独創性よりも、むしろ古風のなかの新鮮さがいい」。
 これは、そのまま飴山の作句姿勢を述べたものだ。

     わが庭のはしりの胡瓜もまれをり    實(『次の花』)
     木から木へこどものはしる白雨かな
       三間町太宰家は化政の遺構なり 祖父(ぢぢ)
       が山に不器男の墓を見舞ふ
     大梁にいつの世の煤蝶生るゝ
     いとけなき茅花を食めば浮雲忌
     雨樋に雀こそつく夕ざくら
     大山(だいせん)の水をあまねく早苗月
     大雨のあと浜木綿に次の花
     送行(そうあん)のひとりは雲を見上げをり
     柴漬(ふしづけ)の艫臍泣きゆく鳰の中
     氷魚を酢に堅田の雨の宿りせん
     白梅や仏を入るゝ経の声
     沖かけて白波さわぐ雛かな

 飴山實、宇佐美魚目、川崎展宏の鼎談「今日の俳句、明日の俳句」は、「俳句」昭和55年1月号に掲載した。飴山47歳、宇佐美48歳、川崎47歳。このとき、いちばん熱弁をふるったのは飴山だった。十分な実作と思索の蓄積に裏打ちされた確固たる持論には説得力がある。よく引用される飴山のことばがある。
 「普通には秋櫻子以降の昭和俳句は固陋な『ホトトギス』の俳句から離れて、飛翔して、そして進歩してきたのだというようなつかまえ方があるけれども、そうじゃなくて、むしろあすこから俳句は本筋から離れてヘボ筋に入ってきたと見るわけです」。
 ヘボ筋の二番目は、季題への対しかた。昔の人は、生活感情が先にあって、ことばが出てくる。いまは、知識が先にあって、生活感情が抜けている、という。
「うたとの出会い」「戦中派の被害者意識と加害者意識」「八月十五日のこと」「師匠とは」「虚子に学ぶ」「昭和俳句の自己完結性」「季題と定型の機能」その他、壮年期の3人の唱和応酬は途切れることなく、印象ぶかいものとなった。
 「明日の俳句はスターターたるあなた方の双肩にかかっているのですから、これから大いにその樹頭の花を咲かせてもらいたいですね」
と、私はしめくくったが、三人ともみごとに、虚子のいう樹頭の花を咲かせることとなった。

 生前最後の句集『花浴び』は、『次の花』から6年後に刊行。
 「お元気のようで何よりと存じます。いつも本を届けて頂いて有難う御在ます。
 此度は句集を作って頂けることになり、心から嬉しく、よろしくお願いを申上げます。
 鈴木さんに句集を作って頂くのは初めてなので、造本、装幀など、大いにたのしみにしておるところです。
 句数は301句、1頁2句組み、そのように原稿句分けをしておきました。句数が少ないようなら、ご連絡下さい。たぶんこれでいいかと思って、近作は次の句集にまわしました」(平成7年6月23日付)。
 
 『花浴び』刊行当時、飴山は腎臓異常のため食事療法中、12月には自宅での腹膜透析を始める。近作は次句集に、との意向だったが、『花浴び』刊行後6年余、平成12年3月16日、腎不全のため73歳で急逝する。現役の朝日俳壇選者の突然の死は、人々を驚かせた。当時の選者3人の追悼句。

     同じ空飛びし日のこと鳥帰る        稲畑 汀子
     黄砂ふる幾日かさなり君はなし       金子 兜太
     俳諧に士の志冴返る            川崎 展宏

 展宏は、のちに次のような句も詠んでいる。
       「休んでは菜園を耕す」といっていた飴山實氏を
       憶う。/残生や一日は花を鋤きこんで 實
     一休み浄土に花を鋤きこんで    展 宏

 『花浴び』の帯に、「古典と競う現代の風雅」として、次のように書いた。
 「平成二年より七年までの三二九句を収める第五句集。古格をふまえて旧套になじまず、旅と日常のなかに俳興の新をきわめる。詩因は腸の厚き所に発し、表現は浅き砂川のごとく澄明。年来の志向いよいよ円熟、現代の風雅に新たな境地をひらく」。
 帯うらの作品抄には、次の12句を引いた(前書略)。

     水亭は釘隠さへかきつばた       實(『花浴び』)
     山ふたつむかうから熊の肉とゞく
     火の雫こぼす松ある野焼かな
     板壁の迦陵頻伽にしぐれけり
     滴りていま接心のだいじかな
     空蟬の阿鼻叫喚や厳島
     ひとの田の鳴子引きゆく山女釣
     虚空から何のこぼるゝ初雲雀
     花浴びし風とゞくなり魚籠の底  
     残生やひと日は花を鋤きこんで
     花吸の二羽ゐて揺らす山桜
     甘干へ東山から雀蜂

 創作者は、みずからの進むべき道を見すえて、人に知られぬ難行道を行くしかない。晩年、病をえてからも、研究者としての客観性を失わず、柔軟剛直に生を全うした飴山實を憶うとき、あらためて敬愛の念をふかくするばかりである。

 最後に、『花浴び』以後の愛誦句を引く。

     狛犬や石のやつれに百千鳥      實
       子のひとりは堅田ちかくに居をかまへてはや十年を
       経たり。遊びにでかけることも増えければ
     魦(いさざ)網打つて淡海をひろげたる
       いまひとりは下関みもすそ川町にあらたに住ひを定むれば
     若潮や名も御裳裾に住ひ得て
     一日は一期と鳴くやほとゝぎす
     桔梗をこのめるわれの一生(ひとよ)かな
     甚平をもて老残をつつみをり
       幕末萩藩士は萩と山口の間を行き来すること多かりき、
       その道を萩往還とよび、今も山中に名残を残す
     萩までの往還にして花野かな
     小畑にくさぐさ摘まん七日粥
     石蕗咲けば津和野の酒も仕込どき
     著莪の花人のえにしはひと代きり
     戦争のあとは帰燕の空なりき
     ながらへん雛の古びをめでながら

       

飴山實に<日盛や中原中也墓と彫り><いたどりの山河中原
中也かな><ねこじやらし中也に山河風とほり>の句あり
中也なき長門峡(ちやうもんけふ)に石叩き    赤榴子



飴山實(昭和54年5月16日、島根県津和野町 永明寺)


Category : 飴山實
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