石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

今月の一句 <三月>

春の雲人に行方を聴くごとし  飯田 龍太


 第三句集『麓の人』(昭40、雲母社)所収。昭和36年(41歳)作。青春の抒情が溢れるような一句だ。

 山梨県立第一中学校の英語教師だったことがある天文民俗学者の野尻抱影(本名正英<まさふさ>)は、甲斐のくにの雲の美しさを絶賛した。
 父蛇笏は「白雲去来の山廬」と自ら称した。


     夕されば春の雲みつ母の里     龍 太   『百戸の谿』
     春めくと雲に舞ふ陽に旅つげり         『 〃  』
     荒波に黒雲迫りさくら咲く           『 忘 音 』
     いづこにも雲なき春の滝こだま         『 〃  』
     春の雲椋鳥寺の辺を好み            『 春の道 』
     滝音はひかりを含み春の雲           『 山の木 』

         
 龍太には<いきいきと三月生る雲の奥(『百戸の谿』)>という句もある。三月が雲の奥から生まれる、というのがなんともしゃれている。  
 春夏秋冬いづれの雲にも味わいがあるが、私は春と秋の雲が特に好きだ。


近からん旅の終りや春の雲   赤榴子



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句集『百戸の谿』口絵


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句集『百戸の谿』(昭29、書林新甲鳥)


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山梨県境川村 自宅にて(平成5年)

Category : 三月
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今月の一句 <二月>

立春の雪のふかさよ手鞠唄   石橋 秀野


 句文集『櫻濃く』(昭24・3、創元社)所収。昭和21年、疎開先の松江市南田町・初音館での作。「立春」「雪」「手鞠唄」と季語が三つも入っている。それでいて、まぎれもなく「立春」をことほぐ句となっている。

 秀野は昭和4年9月(20歳)、慶應義塾大学国文学科2年生だった石橋貞吉(山本健吉・22歳)と結婚。丸の内界隈では、その美貌が注目されていた。17年1月20日、長女安見子誕生。昭和22年9月26日、療養中だった京都の国立宇多野療養所にて死去。享年38。

 私は『定本石橋秀野句文集』(平12・7、富士見書房)を企画編集した。秀野の資料は少なく、目にふれる機会が少ないため、以下、やや多めに俳句を句文集『櫻濃く』より引いておく。
     
     寒梅やつぼみふれあふ仄明り
     花八ツ手まぢかき星のよく光る
     毒だみや十文字白き夕まぐれ
     つばくらめ来たり廃園射る如く
       墨堤
     櫻濃くジンタかするゝ夜空あり
       父小野氏母石ノ上氏
     初ひゝな陸奥(おく)と大和の御祖(みおや)かな
       桂郎さんへ返りごと
     初袷やせて美(は)しとは絵そらごと
       波郷氏出征
     征く君に熱き新酒とおぼえけり
     子にうつす故里なまり衣被
     秋立つと仏こひしき深大寺
     やゝ寒やとぼしきまゝの髪油
       空襲昼夜を分たず
     ものゝ芽に刻々の日のあはれかな
     烏賊噛めば隠岐や吹雪と暮るゝらん
     風炉すゑて魚もやくなる二月かな
       船上山麓にて
     風花やかなしびふるき山の形(なり)
       子にさとして
     青蠅や食みこぼす飯(いひ)なかりけり
       鳴滝といふに一時の宿りを得て
     斑猫や松美しく京の終(はて)
       家人に
     労咳に眉生えつゞく暑さかな
       橋本多佳子夫人とありて
     別れ蚊帳老うつくしきあしたかな
       文章書かぬ言ひわけに
     筆折つて藷に寠るゝ六腑かな
       木屋町
     鳥渡るをみなあるじの露地ばかり
     冬めくやこゝろ素直に朝梳毛(くしげ)
       停電連夜の慣ひとなる
     手さぐりてインク匂へる霜夜かな
       自嘲
     あかゞりや飯欲り哭(な)けば猿の顔
     子や待たん初買物の飴幾顆
     納豆に飯ふき啖ふ松の内
     小夜時雨枢(くるゝ)おとして格子うち
     日脚のぶ煤ひと筋を後れ毛に
       山廬先生の還暦を祝ぎまつる(五句のうち一句)
     かげろうふの甲斐はなつかし発句の大人
     柳絮とぶや夜に日に咳いてあはれなり
     病み呆(ほ)けて泣けば卯の花腐しかな
     卯の花腐し寝嵩(がさ)うすれてゆくばかり
     緑なす松や金欲し命欲し
       家人に
     短夜の看とり給ふも縁(えにし)かな
       病みて百日ちかし
     男手の瓜揉親子三人かな
     妻なしに似て四十なる白絣
     梅雨の雷子にタン壺をあてがはれ
     裸子をひとり得しのみ礼拝す
     大夕焼悪寒に鳴らす歯二十枚
     西日照りいのち無惨にありにけり
     子を離す話や土用せまりけり
     大夕焼消えなば夫の帰るべし
       七月六日夜(三句のうち二句)
     遠花火とりすがれるは冬布団
     火のやうな月の出花火打ち終る
     夏の月肺壊(く)えつゝも眠るなる
       七月廿一日入院
     蟬時雨子は担送車に追ひつけず

 絶筆となった「蝉時雨」の句には、『古事記』のヨモツヒラサカの別れを象徴するような、神話的な雰囲気がある。
 戦後の貧窮のなかで、いのちの絶唱を詠いつづけた。女流俳人による人間探求俳句であった。
     

閨秀の流離うべなふ余寒かな   赤榴子


昭和17年5月29日、大原稲荷へ長女安見子宮参り

Category : 二月
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今月の一句 <一月>


よろこびはかなしみに似し冬牡丹  山口 青邨


明治25年盛岡市生まれ。みちのくびとの素朴な人柄が万人に愛された。

     みちのくの雪深ければ雪女郎         青 邨
     みちのくの鮭は醜し吾もみちのく
     みちのくの町はいぶせき氷柱かな   

昭和12年、44歳の青邨はベルリン工科大学に留学をしている。2年間の海外生活でも多くの句を残した。海外詠の先駆者と言えよう。

       伯林
     舞姫はリラの花よりも濃くにほふ
     ライラック咲けば伯林のことなどを
     
科学者でありながら抒情的な詩人的感性をそなえていた。
「俳句の写生は科学と全く同じであった。複雑なものを単純化して一つの法則を作ることは科学者のすることであった。」「科学も文学もものを観察することは同じだ。ただその後の処理の方法が違ふ。」と言っている。

夏の頃、杉並区和田の青邨を訪ねたところ、当時83歳の青邨は、和服の尻をはしょり、庭をはいずりまわるように草むしりをしていた。雑草園の名のとおり、仰々しい門構えなどなく無造作な、青邨の人柄そのもののような青邨邸であった。


年始客ひとりに妻の華やげる    赤榴子


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昭和50年7月26日、東京杉並・雑草園にて

Category : 一月
Tag : 山口青邨
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今月の一句 <十一月>(2)


父母の亡き裏口開いて枯木山    飯田 龍太


 第4句集『忘音』(昭43・11、牧羊社)所収。昭和41年、龍太46歳の作。故郷、山梨県境川村小黒坂の冬枯れの景を詠んだもの。
 『忘音』は、壮年期の龍太の代表的な句集。栞に畏敬する井伏鱒二の「餘談」を付載。第20回読売文学賞を受賞。
 龍太は、蛇笏・菊乃の四男として誕生。5人兄弟の兄3人は戦死その他のため早逝。
 平成4年8月、蛇笏から継承した「雲母」を900号をもって終刊とする。
 若き日に、
    露の村墓域とおもふばかりなり     龍 太
と詠んで、故郷への屈折した心情を吐露したこともあるが、龍太の句業はおしなべてふるさとの賛歌となっている。これは龍太の人柄の柔軟性によるものだ。

 以下、『忘音』より愛誦句を引く。

       十月二十七日母死去(十句のうちより一句)
      落葉踏む足音いづこにもあらず       龍 太
      あをあをと年越す北のうしほかな
      粉雪ふる常はおもひのなき径(こみち)
      子の皿に塩ふる音もみどりの夜
      萱青む母が死ぬまで掃きし庭
      どの子にも涼しく風の吹く日かな
      妻の寝(い)も子の寝もしらむ秋の風
      凧ひとつ浮ぶ小さな村の上
      春暁の竹筒にある筆二本
      桐咲いて雲はひかりの中に入る


かにかくに山廬こひしき師走かな     赤榴子
 

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Category : 十一月
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今月の一句 <十一月>(1)


繭つくる晩秋蚕のごとく病む   田中 裕明


 第五句集『夜の客人』(平17・1、ふらんす堂)所収。句集巻末ちかくの一句。「晩秋蚕」は秋蚕のこと。この前年の12月30日、肺炎のため死去。享年45。
 角川書店主催の俳壇歌壇新年名刺交換会で会ったときには、抗癌剤による脱毛のため、薄茶いろの毛編み帽をかぶっていた。誰かれに笑顔で挨拶をする姿が印象にのこっている。

 裕明に初めて会ったのは、京都での「青」の会のときだった。新人らしい初いういしさと、老成した作家魂を感じた。早熟と老成とは、本格俳人に必須のものだ。
 没後の2007年7月7日、『田中裕明全句集』がふらんす堂から刊行された。
「さあ、長い長い厄年はこれで終わりにして、気持ちを入れかえて、俳句と人生に取り組みたいと思います。」と句集あとがきに記したが、その年の暮れに死去。
「新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事 大伴家持」と印刷された年賀状を受けとったのは、翌年正月のことだった。

 死者は、遺された人のなかに永遠に生きつづける。
 妻森賀まりの近作12句のなかに、
     月の友夫の話をしてくれし (「俳句」2015年11月号)
がある。

 裕明の晩年の句は、ことごとく祈りの句となっている。
 最後に、愛誦句を引く。

     爽やかに俳句の神に愛されて
     さびしいぞ八十八夜の踏切は
     空へゆく階段のなし稲の花
     目のなかに芒原あり森賀まり
     病みしゆゑ波郷なつかし龍の玉
     山茶花の長病ゆるせ見舞妻
     ねそべりて手紙を開く子規忌かな
     原子爐に制御棒あり日短
     一身に心がひとつ烏瓜
     糸瓜棚この世のことのよく見ゆる

 「目のなかに」の句には、妻への永別の覚悟と悲しみとが読みとれる。
 
              
夭折の面影永遠に花八つ手    赤榴子   




田中裕明主宰「ゆう」創刊号(2000年1月)

Category : 十一月
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