石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

社会性と抒情-古沢太穂-

 古沢太穂が他界して11年になる。 
 亡くなる8か月前、加藤楸邨の句碑除幕式の日に、九品仏浄真寺で式の直前まで金子兜太とビールを酌み交わしていた太穂の温顔が忘れられない。肺ガン末期を告げられていた太穂は、
「酒でもタバコでも、好きなようにしてよい、と医者はいうんだよ」
と言って、ポケットから煙草の函をとりだす。 
 兜太はいちいち相槌をうちながら、「寒雷」創刊時代のことなどを淡々と語りあっていた。交友60年に及ぶ盟友をそれとなくいたわる兜太のやさしさがつよく印象づけられた。
 病名ばかりでなく、余命までこともなげに告げるようになったのはいつのころからだろうか。血液検査の数値表を見ながら、医師は病状の推移を冷静に告げ、患者もまた余命という最重大事をひとごとのようにきく。そんな光景が一般化してしまったようである。
 それにしても、死は恐怖以外のなにものでもないと思いこんでいる私は、太穂の平常心には感嘆のほかなかった。少年時代に父親と死別し、青年時代に療養生活を送った太穂は、人一倍「死を思え(メメント・モリ)」の思索を深めつつ、強靭な精神形成を果たしたのかもしれない。
 ある俳人の葬儀の日、式場の外で出棺を待っていると、近づいてきたのが太穂だった。最後のお別れはしないのですか、ときくと、
「ぼくは、柩の中の顔を見るのがどうもね」
とはっきり言った。親族以外の者が柩の死者に最後の合掌をするうしろめたさと、死者の尊厳を太穂は言ったのだろう。

 新俳句人連盟常任中央委員会委員長として、松川事件や内灘米軍試射場反対闘争など、戦後の社会運動に身を挺してきた点は、日本銀行従業員組合事務局長(専従初代)として組合運動に専念し、組合を退かされた後は福島、神戸、長崎と転勤を重ねた兜太の生き方とも共通するところがある。

     原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ      兜太
     みたび原爆は許すまじ学帽の白覆い       太穂

 前者は金子兜太句集『少年』(昭30・10月)の巻末句。後者は『古沢太穂句集』(昭30・10月)巻末直前の句。ともに昭和30年作。ある年代以上の人が一度は口ずさんだことのある「ああ許すまじ原爆を・・・」という歌の本歌取という点で評価の分かれる句だが、作者の代表句となっている。

     炎天のガスタンク抱(いだ)きたき勝利       太穂
     ガスタンクが夜の目標メーデー来る        兜太

 ここにも二人の共通した志向が窺える。愛妻家という点でも、

     妻の掌のわれより熱し初蛍             太穂
     朝日煙る手中の蚕妻に示す            兜太

と、新婚時代をみずみずしく詠んでいる。

 加藤楸邨は、『古沢太穂句集』の跋文で、太穂の抒情的体質を指摘しているが、兜太もまた本質的には抒情的俳人である。以下、『古沢太穂句集』より。

     梟や肩さむしとて寝がえるに           太穂
     ロシヤ映画みてきし冬のにんじん太し
     光る冬菜妻子泰(やす)き日いつかあらむ
     啄木忌春田へ灯す君らの寮
     五月来る朝日半円に土管の影
     子も手うつ冬夜北ぐにの魚とる歌
     ひたに闘いまた薔薇の季(とき)相逢うも
     基地の夜や白息ごもりにものいうも
     白蓮(しらはす)白シャツ彼我ひるがえり内灘へ
      松川事件六周年をすぎつゝ
     向日葵重き実はや露冷えと北の獄

 内灘の米軍試射場反対闘争を詠んだ一連の作は、いまや社会性俳句の古典といってよい。
 京浜急行・屏風浦駅ちかくの大衆酒場でビールを飲んだとき、私が、むかし労組の動員で新婚早々の妻をつれて原子力空母ポラリスの寄港反対のため、船団を組んだ漁船で横須賀港の沖へ出てシュプレヒコールをくりかえした、という話をしたら、「それはいいことをした」という意味のことを言って、懐かしそうにうなずいていた。
 相好をくずして見知らぬ酔客(すいかく)に応対する太穂の姿に、大衆とともにあることを至福としてきた人の真面目(しんめんもく)を見る思いがした。

 肺ガン末期を告げられた太穂は、「道標」の主宰を退いて顧問となり、同誌および「寒雷」に「予後片々」の作品を発表する。

     はだけいて傷あと冷ゆる梅雨名残り        太穂
     八十路長し朝顔白き花一輪
     日短し腹きめろとは読むことか
     笑いじわ妻もきざませ冬の匙
       九品仏浄真寺に楸邨句碑成る
     句碑の魂(たま)ぼだい樹千は雨の花
     一つ噛む焼おにぎりと晩夏かな
     秋の暑さ越ゆも日数の杖だより
     短日の通話卒寿の姉とのみ
     頬入れてすでに長病む十二月
       十二月二十日、肺炎の疑いにて緊急入院
     そこが肋か除夜蒸しタオル痛かろう
     寒旱どこへも行けず逃れいる
       再び肺炎 救急車で近くの病院へ
     寒すずめ漁れる音のして種々(くさぐさ)
       寿枝子傘寿
     霞より八十路の杖が見えて居き

 平成12年3月2日、永眠。享年86。
 金子兜太句集『東国抄』(平13・3月)に、「悼 古澤太穂」の前書で次の一句がある。

     貫くとは抒情澄むこと太穂亡し        兜太

 「私の俳句は自然流といわれるように、平明、新鮮、そして独自でありたいと念じています。かなり頑固な定型派でもあります」とは、太穂自筆の作句信条である。
 敗戦後の激動の時代に、自らを恃み、節を通した太穂の晩年は、病魔におかされながらも充足していたようにおもわれる。終生、抒情を失わず、句作の途絶えることはなかった。長寿時代などと囃されながら、老年を全うすることの困難な時代。年々去来の花を咲かせた人の「老骨に残りし花の証拠」である。
 俳句という詩型は、作者に風狂・無頼を強いるところがある。太穂晩年の平常心とも、それは無縁のものではなかっただろう。 

27102011.jpg
                九品仏浄真寺(世田谷区奥沢)
              むらさきの秋草胸の密なれと   太穂

Category : 古沢太穂
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