石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

木の葉髪ー西島麥南

    木の葉髪一生(ひとよ)を賭けしなにもなし   西島 麥南
    老いゆくや吐く息白きときのまも

ともに麥南の代表句だが、『人音』(昭16)以降、生前に句集をもたなかったため、その後の作品は『昭和文学全集41』(昭29、角川書店)や『現代日本文学全集91』(昭32、筑摩書房)などの「俳句集」で読むほかなかった。私が麥南の句に初めて接したのは、山本健吉『現代俳句』(昭27、角川新書)だったが、掲句は『俳句歳時記』(昭31、角川書店)の例句として一読以来、忘れえぬ句となった。

西島麥南は青春彷徨の時代をへて、岩波書店に入社、初代校正課長となり、校正の神様とたたえられた。
「生涯山廬門弟子」は、初学以来の師・飯田蛇笏への帰依を宣言したものだ(『現代俳句』第一巻所収「光陰」自序、昭15)。畏友川端茅舎に「雲母」への投句をすすめたのも麥南だった。茅舎はのちに蛇笏のもとを離れ、虚子門となって「花鳥諷詠真骨頂漢」(『華厳』序、昭14)の称号をうける。蛇笏と茅舎(「雲母」時代は本名の信一あるいは俵屋春光の名で作品発表)とのあいだに若干の齟齟があったらしいが、その詳しい事情を知る麥南は沈黙を通して語ることをしなかった。節を曲げない、肥後もっこすの玩迷さだった。

ふるさとと熊本時代の麥南・吉武月二郎・勇(いさみ)巨人の交友と作句活動については、飯田龍太の力作「熊本の秋」(昭36、2「雲母」)に躍動的に描かれている。また、上京後の麥南が、年が改まるときまって甲州境川村の山廬を訪ねて蛇笏に礼節をつくすありさまは、龍太「元日の客」(昭45・1・1「山梨日日新聞」)に活写されている。

麥南俳句の特色を要約すれば、境涯性ということになる。蛇笏が天然自然を霊的に諷詠し、同時に人事句の機微にも長けていたのに比して、麥南は自然詠よりも境涯詠、特に人生の寂寥感の詠出に卓れていた。

     かなしみに溺れて生くる弥生かな   麥 南
     走馬燈ながるゝごとく人老ゆる
       われにそむきし彼の女を恋ふるにあらず憎むにもあらねど
     秋風や殺すにたらぬ人ひとり
     玉の緒のがくりと絶ゆる傀儡かな
       山廬後山展望
     こゝにして諏訪口かすむ雲雀かな
     恪勤の日あし短くなりにけり
     塵労の冬夜のねむり深かりき
       山廬即事
     酒熱く寒の蕗の芽たまはりぬ

『現代俳句大系』第四巻に収録する麥南句集『人音』の解説資料取材のため鎌倉市由比ケ浜へ麥南を訪ねたのは昭和47年4月、川端康成が世界的名声のなか、事故ともまがうガス自殺で絶命した直後のことだった。第一線を退いた麥南は居間の置炬燵でくつろいでいた。奥の間から和喜夫人指導の活け花稽古の声が華やかにひびく。
 「川端さんの気持ちがよくわかるんですよ」
と麥南は言った。川端は72歳10か月、麥南は77歳。いまから考えれば、老けこむ年齢ではない。
私は、有楽町の交差点で見かけた都知事選挙のオープンカーに佇つ川端の痛々しい姿について話したりした。
 「若いころ、茅舎にいわれたことがあります。仕事にばかり熱中すると、あとで寂しい思いをするよ、とよく忠告されました。いまでは、こうして家内の世話になっているのです」
そうして、届いたばかりだという炬燵の上の封筒を示しながら
 「石原舟月さんが、いまも顧問料という名目でお小遣いを送ってくれるんですよ。もう、お断りしなければと思っているのですがねえ」
と、含羞をおびた笑顔で言う。舟月は、京橋で東広という宣伝広告会社の社長をつとめ、同じ「雲母」の長老・松村蒼石が和服に小さな前掛姿で事務の手伝いをしていた。蛇笏から全幅の信頼を得ていた彼ら長老たちが、蛇笏没後、龍太を「先生」と呼んで、老境の新風を生みだしたことは、文学的美談といってよい。

     死なば秋小さき墓に野の花を    麥 南

の句のとおり、昭和56年10月11日、永眠。蛇笏忌に遅れること8日。享年86。

龍太句集『山の影』(昭60)に「麥南仏」九句の追悼句がある。父蛇笏と母菊乃のほかに、これだけの追悼句を詠んだ例はない。龍太にとって、麥南がかりそめならぬ人であったことを証するものだろう。

     なつかしや秋の仏は髯のまま   飯田 龍太
     蘭の香にかなひて眠る薄瞼
     秋天に死を目守りゐる師の眼あり
     菊にむせびて遺影の眼鏡縁強し
     草の穂も成仏日和鳶が鳴く
       塚原国手曰く
     菊白し安らかな死は長寿のみ
       かつて”校正の神様”といはれしひと
     爽涼と目つむりて指花の中
     秋真昼柩三尺宙に浮く
     麥南永久に去る鎌倉を秋の風

「髯を剃りましょうか、という家のひとびとに、麥生さんは『そのままの方が麥南さんらしくていいんじゃないですか』といったそうだ。たしかに半白の髯は、おだやかな死顔にアクセントをつけて、いかにも風霜の詩人にふさわしいように私にも眺められた」(龍太「西島麥南を憶う」、昭56・12「俳句」)。

没後3回忌を期して刊行された『西島麥南全句集』(昭58、同刊行会)には、『人音』以後の作品624句が「枯菊」の題名のもとに収録されている。『人音』を加えた総句数は1122句。空白時代の多い俳人だったとはいえ、俳句史に名を残した人としては、いかにも寡作にすぎる。

「枯菊」より。
    
     炎天や死ねば離るる影法師     麥 南
     身ぎれいに老いゆく衣更へにけり
     柿くふやうつしみに歯より衰へて
       山廬先生埋葬
     山の塋(はか)香煙雲のごとき秋
     着ぶくれて生くる限りの弟子の端
       武者小路先生御夫妻相ついで御他界
     つゆくさの露のいのちのあとやさき
       さゝやかなる文化賞を受けて
     炉火ねむし世の片隅のしあはせに
     老いて病み病みては老ゆる木の葉髪
       老いて病むこと久しく
     冬の蠅やがてはとづる眼もて追ふ
       病身喜寿を越えて
     日記買ふ一縷のいのち恃(たの)むなり
     虎落笛わが挽歌とし死ぬ冬か
 
芭蕉は、最晩年の孤愁のなかで、

     びいと啼く尻声かなし夜の鹿    芭 蕉

と詠んで、軽みを実践した。

惜しむらくは、孤愁のなかの軽みの吟調が、麥南の晩年におとずれなかったことだ。

麥南より七歳下の作家上林暁は、句集『木の葉髪』(昭51)の巻頭に、「西島麥南の『木の葉髪一生を賭けしなにもなし』に抗して/
 『木の葉髪文芸にかけて一生かな』」と記し、集中に次の一句を載せている。
     
     文芸に一生(ひとよ)をかけし木の葉髪   上林 暁

病苦と逆境に耐えて晩年を全うした自負と作家魂の言誉げの一句だ。

生涯山廬門弟子を護符のように、蛇笏門下にあること47年。師の哀歓をわが哀歓として喜憂をともにした、よき時代の稀有な師弟関係だった。
思い邪(よこしま)なく信篤きひと麥南は、「俳諧はなくてもありぬべし」(芭蕉)をこころに、多くの俳友に恵まれ、幸せな俳生涯を閉じた。

蛇笏と同じく、麥南もまた、死後に評価を委ねた安心立命(あんじんりゅうめい)の境地に到っていたにちがいない。

       西島麥南追慕
     俳道に殉じ悔いなき木の葉髪     赤榴子



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                  文京区 関口・芭蕉庵
             木の葉髪せめて眸は明らかに  西島麥南


 

Category : 西島麥南
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