石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

聡明と温もり -飯島晴子-

 飯島晴子は、農村や山村を訪ね、その生活にふれることを楽しみ、かつ作句の源泉とした。生活感のある平凡な農山村が、自分の俳句を引き出してくれる、と言っていた。
 私のふるさと、山梨県上野原町(現、上野原市)もそういう農山村のひとつである。町内の若い俳人佐々木碩夫(みつお)から、「今夜、飯島さんと仲間たちが泊りこみの句会をします」といわれ、挨拶に行った。この家には、かつて藤田湘子も来たことがあり、句集『白面』(昭44、牧羊社)に「上野原、佐々木碩夫の家に遊ぶ 七句」として嘱目句を収めている。
 大きな掘炬燵のテーブルには、母親手づくりの煮ものや漬けものが山と盛られ、句会前の緊張感と和気藹々の雰囲気を生みだしていた。こまめに仲間の面倒をみる晴子は、佐々木家の生活にとけこんでいた。
 「今夜は、雑誌『俳句』の企画をまとめなければなりませんので、残念ですが失礼します」といって、私は中座した。数日後、晴子から、「先夜はナポレオンを皆でおいしくいただきました。鈴木さんに負けないようにと句会は盛りあがり、深更に及びました」という意味の達筆のハガキをもらった。晴子は筆まめな人だった。
 その後しばらくして、初冬の霧雨模様の夕暮れどきに晴子と碩夫のふたりが、山奥の村阿寺沢からの帰りみちということでわが家に立ち寄った。登山靴にアノラック、小ぶりのリュックサックという晴子の吟行スタイルは、俳壇のパーティーなどで見る華麗な姿とは別の、清楚な印象があった。ちょうど生垣の石を積みかえる工事中で、晴子は老石工の手もとをしばらく眺めていた。阿寺沢には碩夫の親戚があり、その家を案内したのだろう。阿寺沢から碩夫の家までは半端な距離ではない。晴子は当時59歳。健脚はまだ衰えていなかった。
 「わが俳まくら-上野原-」や自句自解などから、上野原での作とわかる句を引く。
   
    恋ともちがふ紅葉の岸をともにして(『八頭』)
    兎の子みんな黒くて夕涼み( 〃 )
    容赦なき夏鶯の近さかな( 〃 )
     甲州軍刀利神社
    軍刀利(ぐんだり)さん涼し涼しと登りけり( 〃 )
    猪の腸(はらわた)あらふ瀬波かな(『寒晴』)
    螢の夜老い放題に老いんとす( 〃 )
    男らの汚れるまへの祭足袋( 〃 )
    北斎の犬目富士いま雪解富士(『平日』)
 
 第一句は、碩夫の案内した阿寺沢での作。谷を覗き込んだ碩夫が、「恋ぞつもりて淵となりぬるとはうまいことを言ったもんだなあ」と呟いた。それを手がかりにして出来た句だという。
 第三句は、彫刻家笹村草家人(本名良紀、東京芸大助教授)の未亡人を山中の一軒屋のアトリエに碩夫と訪ねた折のもの。人間のほうがたじたじするくらい近く、勁い声だった。「近さかな」の断定が快い。草家人は民俗学にも関心がふかく、敗戦まぢかの農村調査の採集記録「甲州山村聞き書き」を『日本民俗誌大系』第11巻(昭51、角川書店)に収めたことがある。また、永田耕衣の講演に草家人への言及があって、驚いた記憶がある。晴子は、草家人作の石像を<露寒の眉目際立つ観魚翁>と詠んでいる。
 晴子の代表句となった六句めは昭和62年、66歳の作。碩夫の案内で見た螢は二、三匹で、初螢という感じだったが、それとは正反対の「老い放題に老いんとす」と居直った句になってしまった、という。また後年、句が出来たとき、本当に老いたならこうは言えないだろうと思った、とも述べた。
 晴子の上野原通いは最晩年まで続いた。手弁当での句会指導は、知られざる種蒔く人の一面である。

 晴子没後、長女後藤素子の許諾のもと『飯島晴子読本』(平13・10、富士見書房)を企画編集した。これは楽しい仕事だった。
 俳句は、第一句集『蕨手』から遺句集『平日』までの7冊を完全収録。散文は、初期以来の厖大な資料を蒐集。随筆、評論、自句自解、俳論抄のジャンルに分類し、各々を編年順に配列した。
 俳句の写実と非写実について、直接聞いたり、俳論として読んだりしたことが、改めて通読すると、すべて腑に落ちて、快い読後感を味わうことができた。生涯を終えた人の偉業を鳥瞰することは、僥倖というほかない。
 
 この『読本』から、私は二冊の単行本をつくった。晴子生前の希望でもあったという『飯島晴子全句集』(平14・6、富士見書房)と、唯一のエッセイ集『葛の花』(平15・7、富士見書房)である。
 『全句集』には、「初期作品」として「馬酔木」昭和35年3月号より40年2月号まで5年間の作品177句を巻末に収めた。第一句集『蕨手』(昭47、鷹俳句会)からはすべて割愛されたものである。「馬酔木」時代の収穫としては、水郷潮来での作、
    枯葦の流速のなか村昏るゝ
の一句のみを愛着句としてあげている。

 『全句集』を通読して、前半のスリリングな句に比し、後半の平明への移行は、私にはやはり感情移入しやすく読める。平明は、老いへの自覚と無縁ではない。

    今頃は桜吹雪の夫の墓(『儚々』)
    白髪の乾く早さよ小鳥来る( 〃 )
    生きて死ぬまで手焙の炭の如( 〃 )
    翔べよ翔べ老人ホームの干布団( 〃 )
       七十五歳の誕生日に
    竹馬に乗つて行かうかこの先は(『平日』)
    気がつけば冥土に水を打つてゐし( 〃 )
    死の如し峰雲の峰かがやくは( 〃 )
    かくつよき門火われにも焚き呉れよ( 〃 )
    端座して雛の吐息聞くとせむ( 〃 )
    葛の花来るなと言つたではないか( 〃 )
    大雪にぽつかりと吾れ八十歳( 〃 )
    ミモザ咲きとりたる歳(とし)のかぶさり来( 〃 )

 これらの句も、一見、平明な写実風でありながら、非写実的二重構造は根底に流れている。
 典型は、思索と実作のなかからしか生まれない。飯島晴子という典型の出現によって、現代俳句は新たな指標を与えられた。晴子による俳句変革は、その後の俳句の潮流を晴子以前と以後とに二分したといってよい。

 エッセイ集『葛の花』は、かねてより愛読していた晴子のエッセイを一冊にまとめておきたいという念願がかなったものだ。
 香気あるエッセイは、それにふさわしい器に盛られなければならない。
 晴子の明晰で聡明なエッセイには、ほのかなユーモアと温もりがある。晴子の愛したあの、山村の炉辺の温もりだ。晴子の文学に底流する温もりが、晴子なきあとも読者を魅了するのである。

           おもかげや生木泡ふく春焚火      赤榴子

スクリーンショット 2012-01-27 14.14.16
                   山梨県上野原

           女の雛をのせる荒瀬をえらみけり    飯島 晴子

    

Category : 飯島晴子
Posted by sekiryusha on  | 2 comments  0 trackback
このカテゴリーに該当する記事はありません。