石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

写生と幻術 −阿波野青畝−

 阿波野青畝(あわの・せいほ)の名前を初めて知ったのは18歳のとき、山本健吉『現代俳句』(角川新書)でだった。

     葛城の山懐に寝釈迦(ねじゃか)かな    阿波野青畝
     なつかしの濁世(じょくせ)の雨や涅槃像
     案山子(かかし)翁あちみこちみや芋嵐
     緋連雀一斉に立つてもれもなし
     一の字に遠目に涅槃したまへる
     目つむれば蔵王権現後の月

 そこで鑑賞されたこれら『万両』『国原』の代表句のよさが、十分に理解できたとはいえなかった。
 その後、「俳句」「俳句研究」の編集にたずさわることとなり、青畝の著書4冊の編集・出版を担当した。第5句集『甲子園』と第7句集『不勝簪(ふしょうしん)』、そして最初の俳句随想集『俳句のこころ』と第2随想集『俳句のよろこび』である。「俳句のよろこび十冊届きました。恋人に遭うような気持になりました」とは、青畝からの礼状の一節。

 青畝は、明治32年(1899)2月10日、奈良県高市郡高取町に生まれた。本名橋本敏雄。大正12年(24歳)、阿波野貞と結婚、改姓して大阪市西区京町堀上通に住む。昭和3年、長女多美子誕生。8年、貞死去、秀と再婚。20年、空襲で本宅焼失、西宮市上甲子園の別宅へ移住。12月、秀病死。21年、三人めの妻田代といと結婚。22年、秀の影響でカトリックの洗礼を受ける。受洗名「アシジのフランシスコ」。26年6月、多美子死去(23歳)。
 句集『甲子園』(昭47・12、角川書店)は、昭和20年から平成3年12月22日の永眠まで、終の栖(すみか)となった地名にちなんで命名された。昭和31年(57歳)から40年(66歳)までの作品627句を収録。なお、長女多美子の死後25年めの昭和51年6月、阿波野多美子句集『薔薇』が刊行された。序文・青畝、あとがき・とい子。「俳句研究」を編集していたころ依頼した昭和63年8月号の作品32句のなかに次の一句がある。

     多美子忌のそのあぢさいも老いにけり   阿波野青畝

 『甲子園』のあとがきに、「さきの『紅葉の賀』を出したその後の句が大量に溜まっている。それを整理してみたが、気にくわぬ作品だらけでよくも平気ですましたものだとあきれる」と書いているが、刊行の翌昭和48年、第7回蛇笏賞を松村蒼石句集『雪』とともに受賞した。
 青畝は受賞の「所感」で、俳句は伝統を忘れてはならぬ直感の詩であり、つねに創造されるもの、その上に日本の言葉を純粋に美しく使って、しかも作意を的確に表現しなければならぬもの、と述べている。
 授賞式は昭和48年6月25日(月)、東京市ヶ谷の私学会館。記念講演は四S(阿波野青畝、高野素十、水原秋桜子、山口誓子)のひとり秋桜子。青畝の書く文字の美しさをたたえ、俳句における独自の表現法と俗語を正す創作力に賛辞をおしまなかった。また、『甲子園』より、

      山又山山桜又山桜     青 畝

をあげ、60歳をすぎて、俳壇人をあっといわせるような思いきった句を作ることに感嘆している。
 以下、『甲子園』より愛誦句を引く。

      一軒家より色が出て春着の児     青 畝
      登山道なかなか高くなつて来ず
      しらべよき歌を妬(ねた)むや実朝忌
      茲(ここ)十日萩大名と謂ひつべし
      天竜に落ちむばかりに干蒲団
      あの音が釘打つならむ受難節
      白魚のまことしやかに魂ふるふ
      まひまひの獅子奮迅とまはりけり
      夕顔や方丈記にも地震(なゐ)のこと
      風花をさきがけとしてだびら雪

 青畝は、句集のあとがきその他で、みずから何番めの句集であるかを明記した。第1句集『万両』(昭6・4、青畝句集刊行会)から第10句集『西湖』(平3・4、刊行会)までの10冊が、生前刊行の句集ということになる。没後に『西湖』以後の作品が遺句集『宇宙』(平5・11、刊行会)として出版された。

 ここでは『不勝簪』(昭55・2、角川書店)から愛誦句を抄録する。なお、書名は杜甫の「春望」の結句からとった。昭和49年(75歳)から53年(79歳)までの678句を収める。

      武者さんの絵にはなりさう種の薯     青 畝
      土用波うねりに壱岐を乗せにけり
      聾(ろう)青畝面かぶらされ福の神
      俳諧に遊ばばや明易くとも
      秋蝶のさすらふかぎり色ヶ浜
      風の日も股をひらきて女郎蜘蛛
      威銃(おどしづつ)大津皇子は天に在り
      錦繍に朴見ぐるしく枯れにけり
      恵心堂抓(つま)めるほどや冬の山
      かつみ恋し田螺恋しと旅の我
      軍神像白夜の広場占めにけり
      牧神を噴水の噴きまくるかな
      満月に繽紛と翔ぶ出水(いづみ)鶴
      鮟鱇のよだれの先がとまりけり
      火山灰(よな)除に薩摩をとめの頬被
      一茶忌や色好むとはなほ哀れ
      黄塵をものかは鶴の帰り去る
      鉄心を鍛へよ滝の一行者
      十字架を象嵌(ぞうがん)したる天高し
      伐折羅(ばさら)吐きたまふ白息なかりけり

 75年にわたる青畝俳句の特長を一言に要約すれば、諧謔的有情滑稽。ユーモアも、エロスも、クリスチャンとしての宗教性も、清朗な善意に裏うちされている。『俳句のこころ』(昭50・3、角川書店)に、次の一節がある。
 「われわれは常に謙虚でのびのびした素直さを持ち、私意を離れる心の用意をつくらねばならない」。
 私はかつては、青春の歓喜も苦悩も句のおもてに出さない青畝の老成ぶりに物足りなさを感じたものだが、いまは老年の華の艶冶に陶酔するばかりだ。
 健全な諧謔精神、口語の駆使、文語の格調、黄金(こがね)を打ちのべたような印象鮮明な表現力、意表をついた取り合わせ。そしてなにより平明にして余韻ある俳意の確かさ。それらは積年の句作体験からの自得にほかならないが、もう一方に、余技としての絵画と連句の体験から得た省略・飛躍と奔放な連想力があったことを忘れてはならない。
 近年、北海道旅行の折、北斗市のトラピスト修道院で<十字架を象嵌したる天高し>の句碑に出会い、感動した。季節も快晴の初秋、以来、忘れえぬ一句として胸に棲みついている。

 技法的には、写生を基本としながら、けっして硬直せず、季物や情懐を虚実自在に諷詠した。写生については、『俳句のよろこび』(平3・8、富士見書房)に面白いエピソードが綴られている。

      誤つて雛鳥落ちしエルムかな     青 畝

 かつらぎ庵の松の木から、孵(かえ)ったばかりの烏の子が墜落した。たまたま札幌に旅した折、北大植物園に杖を引いた。芽ぶきはじめたエルムの高木の梢に烏の巣があった。
 「甲子園の烏がそのとき頭にやってきたので私はフィクションを企てて、雛鳥を中天から墜としたのである。
 私の工房は庵にのみ在るのではない。旅先へも運べるので便利重宝である」。
 其角は、『猿簑』の序で、次のように記した。
 「わが翁行脚のころ、伊賀越えしける山中にて、猿に小簑を着せて、俳諧の神を入れたまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼(おそ)るべき幻術なり」。
 『猿簑』巻頭句<初しぐれ猿も小簑をほしげ也  芭蕉>についての言挙げである。
 青畝にも、「あたにおそるべき幻術」の句は、枚挙にいとまがない。

 高柳重信は、四Sのなかで本当に新しかったのは青畝ではないか、青畝の俳句は言葉についての深い洞察を如実に示している、と述べた(昭和53年9月「かつらぎ」、創刊50周年祝辞)。
 かつて、青畝の師高浜虚子は、俳壇を一つの球体にたとえ、新鋭たちが時代の寵児となって疾駆してゆき、一見、虚子はとりのこされたようにみえながら、気がつけば、時代の先頭に立たされてる、という意味のことを語った。青畝もまた、いっとき古風な俳人とみなされたが、耐えざる砕身鏤骨によって新鮮な魅力を生みつづけ、最晩年、
     
      狐火を詠む卒翁でございかな  (『西湖』)

と詠んで、喝采を博した。
 おびただしい追悼句にも主情のひと青畝の哀惜の念がこめられ、忘れがたい。一句だけを引いておく。

        悼水原秋桜子
      わが涙梅雨名残ともあらなくに  (『あなたこなた』)

 最後に、青畝の人柄の窺える手紙を再録しておきたい。
 「台湾の旅行中でしたので、社主源義君の訃をおくれて耳にして愕然といたしました。
 五日の御本葬にどうしても上京はできませんのが残念です。
 十四日の俳人協会顧問会議に上京する時、霊前に御挨拶したいものと考えております。(略)
 今後の『俳句』編集については支障ないことと存じますけれど、何卒源義君の御遺志を継いでゆかれます様、望んでおります。/十一月三日/阿波野青畝/鈴木豊一様」。
 角川源義は昭和50年10月27日、肝臓癌のため永眠。58歳。本葬は11月5日、東京築寺本願寺で角川書店葬として行われた。

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トラピスト修道院(北海道北斗市三ツ石)
十字架を象嵌したる天高し  阿波野青畝

Category : 阿波野青畝
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