石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

成就、そして断念 −篠原 梵−

 昭和50年10月19日(日)夜、入院中の角川源義から自宅あてに電話がかかってきた。かぼそく消えいらんばかりの声だった。
 「君の好きな篠原梵がなくなったね。『俳句』の見本は、いつできるかね」
 「明日できる予定ですので、病室へお届けします」
 篠原梵(しのはら・ぼん。本名敏之)は、昭和50年10月17日、父母の見舞いに帰省中の松山で肝硬変のため急逝した。享年65。早すぎる死だった。
 梵の葬儀・告別式は、10月24日午後1時より千駄ケ谷の千日谷会堂で中央公論事業出版の社葬としておこなわれた。角川書店社長角川源義の名前で香典を用意したが、香典・供物の類は辞退ということだった。源義は10月27日、肝臓癌のため永眠。

 篠原梵を東京文京区京橋二丁目の中央公論社ビルに訪ねたのは、昭和47年4月だった。俳句の企画相談のためだったが、十代から愛読していた俳人に一度は会っておきたいという思いもつよかった。当時、梵は自ら創業に尽力した中央公論事業出版の専務取締役だった(翌48年より社長)。「婦人公論」や「中央公論」の編集長として雑誌ジャーナリズムの修羅場を生きてきた人の精悍な風貌には、どこか近よりがたい威厳が感じられた。寡黙な梵は、はじめ取りつく島もなかったが、大学時代に講義をうけた八木絵馬(やぎ・えま。本名毅<つよし>)や林原耒井(はやしばら・らいせい。本名耕三)など「石楠(しゃくなげ)」の俳人の名前を出すと、それが話のいとぐちとなって、「石楠」回顧談となった。「石楠」については、角川書店の校正にかかわっていた原田種茅(たねじ)から、その歴史や俳人のことを教えてもらっていた。
 篠原梵と八木絵馬とは、ともに明治43年4月生まれ。梵が15日、絵馬が16日の誕生だった。松山中学、松山高校以来の旧友で、昭和9年、梵は東大国文科、絵馬は同英文科を卒業。「石楠」で切磋琢磨し、それぞれ独自の作風を確立した。私は十代の終りに、『昭和文学全集』41(昭29・7、角川書店)や『現代日本文学全集』91(昭32・4、筑摩書房)の「現代俳句集」で、その作品を愛読し、梵の感覚、絵馬の抒情の俳句は季節ごとに口をついて出るほど暗誦した。
 昭和50年12月号の「俳句」に、八木絵馬に追悼文「篠原梵の足跡」を書いてもらった。半世紀に及ぶ交友と梵の人と作品について、真情こもる達意平明の文章を綴っている。
 
 梵は昭和14年4月、弥富(やとみ)雪枝と結婚。仲人は林原耒井夫妻だった。夏目漱石門下だった耒井は、結婚祝いに漱石『道草』の書き損じ原稿一枚(二〇〇字詰)を贈った。11月、長女杜子(もりこ)誕生。
 第一句集『皿』(昭16・9、甲鳥書林)は、「子 四七句」から始まる。書名は故郷の名山・皿ヶ嶺からとられた。初版500部。

     冬日蹴るくびれのふかき勁き足       篠原 梵
     春隣吾子の微(み)笑の日日あたらし
     みどり児に見せつつ薔薇の垣を過ぐ
     生えそろひ来し髪汗ばみねむりをり
     吾子昼寝足が小さき叉をつくり
     宵寒の背中を吾子のつたひあるく
     小さき身に父われほどのくさめ蔵す

 「石楠」の唱える広義の十七音を実践、定型をくずした表現に工夫のあとが窺える。動詞の多用と字余りとは、梵俳句の特長である。
 『皿』の作品配列は、「子、丸ノ内界隈、バス所見、アパートの冬、新潟まで、スキー地まで、犬吠崎周遊、法師温泉まで」など全27章に分類、各々3句から47句までと一定せず、おおむね逆年順である。昭和6年(21歳)から16年(31歳)までの340句を収録。
 「犬吠崎周遊」11句は、新婚旅行のときの作。

     麦の畝集まりゆきて丘を越す     梵
     利根明り菜の花明り窓を過ぐ
     春の闇われひと映る窓にあり
     濤くだけ生るる風にショールなびく
     東風すさび燈台の灯の長くなり来ぬ

 新婚のよろこびが素直に表現されている。
 高村光太郎は大正元年8月(30歳)、犬吠崎へスケッチ旅行にいき、「犬吠の太郎」(『道程』所収)を書いた。このとき、智恵子と初めて出会っている。中村草田男は昭和13年1月(36歳)、「犬吠行」の群作41句を得た。風景は、その美しさだけではかならずしも詩因を誘発することはない。土地に刻まれた先人の詩情が、新たな詩想を喚起するのだ。私も、家人の運転で、太海、鴨川から九十九里、犬吠崎をめぐったことがある。変哲もない海岸風景といえばそれまでだが、源義経敗走の伝説もあり、歓喜と悲愁の舞台として、忘れえぬ俳枕の一つとなった。
 以下、『皿』より。

     にじみたる汗につつまれ総身あり       梵
     どの窓か反す冬日に射られ行く
     バスも電車も窓あけて走るやうになりぬ
     吊革のひとのぬくみの環(わ)は廻す
     すれ違ふ汽車の窓透き雪山あり
     やはらかき紙につつまれ枇杷のあり
     ちりやすくあつまりやすくサヨリらは
     聞くうちに蝉は頭蓋の内に居る
     扇風機止り醜き機械となれり
     葉桜の中の無数の空さわぐ
     麻の服風はまだらに吹くをおぼゆ
     寒三日月目もて一抉りして見捨てつ
     北風とおなじ速さに歩きゐしなり

 特異な感覚を十七音に定着させる表現力への驚きは、十代の初見以来変わらない。慣れ親しんでいるうちに、ときに自分の句ではなかったかと錯覚をおぼえることすらある。
 三句めの「バスも電車も」は、初夏の季感あふれる印象的な句だが、季語はない。季感優先も「石楠」の作風だった。
 十句めの「葉桜」の句は、松山市の名刹・石手寺に句碑となっている。道後温泉での大学の同窓会の折、この寺をたずね、清楚な自然石の碑の前に立って、梵の面影をしのんだ。

 第二句集『雨』(昭28・4、石楠社)は、昭和16年から24年末までの391句を収録。句の下に洋数字で制作年が記されている。梵らしい几帳面さだ。書名は、裏から見ても表から見ても同じような形が好きなので選んだ、という。配列は『皿』と同様、「富士、雲、蝉、火、田園」など34章に分類、各章ともに作句年代順である。

 以下、『雨』より。

     富士の弧の秋空ふかく円を蔵す           梵
     早苗田にましろき雲の満ちて来ぬ
     稲穂いま乳こもり来し撓(しな)ひにあり
     雪解(ゆきげ)田に空より青き空のあり
     まだ柿のほか月かへす若葉なし
     夕立に小石のふへし道帰る
     屋根越えし凩(こがらし)森を得しきこゆ
     しやぼん玉底にも小さき太陽持つ
     雲に触れゆがみて秋の夕日入る
     いてふちりしける日なたが行手にあり
     花びらの落ちつつほかの薔薇くだく
     葛の花のにほひの風を過ぎて知る
     閉ぢし翅しづかにひらき蝶死にき
     蟻の列しづかに蝶をうかべたる
     蚊が一つまつすぐ耳へ来つつあり
     水筒に清水しづかに入りのぼる
     星と星のあひだ深しや木犀にほふ  
     手毬唄片言にいふをともに言ふ
     風邪熱の子のゆめあたまを撫でて去らしむ
     薄暑の地に篏(は)まれる石に釘直す
     犬がその影より足を出してはゆく
     誰か呟きわがゆく闇の奥をゆく
     除夜の燈を魚焼くけむり来てつつむ
     末枯の道あつまつて橋わたる

 だれもが見たり感じたりする市井身辺の些末事を、独特のしらべと言葉づかいで表現している。
 第一句めの「富士の弧の」について、八木絵馬はつぎのように記している。
 「私といっしょに静岡へ講演に行き、三保の松原を遊歩したときの作で、殊に『富士の弧の』は雄大で鋭く美しい詩感に驚嘆したものである」。
 梵の代表句は、戦後の不如意な生活のなかで、絵馬をはじめとする俳句仲間との旅と句会から生まれている。これは、どの俳人にも共通する磁場としての「座」の高揚である。
 梵は俳句史に残る典型を成就したあと、句作を断念する。『篠原梵句集 年々去来の花』別冊『徑路』(昭49・10、丸ノ内出版)で、その理由を三つあげている。
①臼田亜浪が死に、「石楠」が廃刊となったこと。また、6号で終刊となった雑誌「俳句」の仲間たちが本業を上位とし、ともに句作に励む機会が失われたこと。
②前後16年にわたる気随気ままなひとり狼の雑誌記者生活や、その後の出版活動から身についた習性と気質を脱けだすことができないこと。
③八木絵馬と山あるきをはじめて、口語表現をこころみたが、これ以上はもう自分にはできない限度であると感じたこと。
 『年々去来の花』の最後に、『雨』以降の作品140句を「中空」として収録する。四時の変に嬉戯する梵の詩心は健在だが、作家はどこかで自らに終止符をうたなければならない。その逡巡と決断のさまが、私には痛々しくさえおもわれる。

 「中空」より愛誦句を引いておく。

     鳥や葉の影よぎるために障子あり
     シャボン玉につつまれてわが息の浮く
     泊船の油紋とくらげゆれて寄る
     草揉んで水中眼鏡まづぬぐふ
     昇るまへの朝日真紅に雲を灼く
     打ちし蚊の磔刑のごとく壁にあり
     木犀の金の十字が地に満てる
     窓ぢゆうの夜明けの空も雪あかり
     夕立が筒樋(つつひ)のかたちとなつて鳴る
     幹に耳をつけてかなかな去るまで聞く
     灯を消して月を一尺畳に入れる
     あたたかくやはらかく濃き闇をゆく

 『徑路』のなかに、自らが辞書を引きずめに訳したというゲーテの詩「漂泊の旅人の夜歌」が載っている。

     どの山の頂にも/憩ひがある。
     木々の梢に/わずかのそよぎも/みとめられず、
     小鳥は森の中で/息をひそめてゐる。
     もうしばらくのことだ! ぢきに
     お前も永い憩ひに入るのだ。
            (ゲーテ「漂泊の旅人の夜歌」篠原梵訳)

 ゲーテは若き日、キッケルハーン山の山小屋の板壁にこの詩を書きつけ、51年後に再訪。自分の詩を読んで、老いたる目に涙をうかべた。その6か月後に遠逝。
 死は、永遠の憩い。それは、恐怖であり、救済である。老年にいたって、死を思わぬものはない。とくに、一病をかかえる身には、「ぢきに/お前も永い憩ひに入るのだ」ということばは、信仰の有無にかかわりなく、大きな救いとなるだろう。感傷的なことを承知でいえば、命終ちかい梵の胸中に自ら訳したこの詩句が去来したのではないかと想像して、救われる気持になるのである。


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                                篠原 梵 筆跡                            篠原 梵 
                                                                      (石井鶴三のスケッチ)


Category : 篠原梵
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