石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

だらだら坂の黒光り −丸谷才一−

 丸谷才一と大岡信との対談「唱和と即興」は、昭和49年9月号の「俳句」に発表された。私は、自分で企画した『日本民俗誌大系』全十二巻の刊行途中に、角川源義から突然社長室によばれ、「俳句」の編集担当を命じられた。同号は、その最初の企画編集だった。
 丸谷にはそれ以前に、『日本文学の歴史』第8巻「文化繚乱」(昭42、角川書店)の月報に「千里眼の宣長」という文章を書いてもらっていた。また、大岡には、同書第12巻「現代の旗手たち」(昭43)に現代詩についての一文を頼んでいた。
 丸谷は、本居宣長が『美濃の家づと』で、『新古今集』開巻第一首の<みよし野は山もかすみてしら雪のふりにし里に春は来にけり 藤原良経>を評して、「めでたし、詞めでたし、初句はもじ、いひしらずめでたし、のともやともあらむは、よのつねなるべし」という、「投げつけるように鋭い讃辞を読むごとに、ちょうど見巧者が声をかけるのに立会ったときのような喜びを感じてしまう」と書いていた。『新古今集』をいちばん好きな勅撰和歌集だという丸谷の、百年の知己を得たような心の弾みが伝わってくる名文だった。
 対談では、日本の詩歌における即興(丸谷はインプロビゼーションという)の重要性を指摘し、相手があって閃めく唱和と即興が詩の基本であり、日本文学の伝統である、という。丸谷によれば、日本文学は本質的につくり捨てる性格のもの、現代日本の風俗を取り入れた自分の長編小説もまたつくり捨てにほかならなかった。
 対談の最後に、丸谷は、高浜虚子23歳のときの句<陽炎がかたまりかけてこんなもの>を発句に、つぎのような付合(つけあい)をした。

   陽炎がかたまりかけてこんなもの    虚 子
    十里四方であんず咲くとき      才 一
   白酒に持ちおもりする荷をといて    信

 対談後の酒席で、丸谷の盃が空になったので注ごうとしたら、
 「編集者は、酒を注ぐものではありません」
とたしなめられた。酒の呑みかたにも各人各様の流儀のあることを知り、以後、つつしむことにした。この夜、丸谷は、大岡と二人だけですこし話をしたいから、というので私は先に料亭福田家を退出した。担当していた朝日新聞の文芸時評の後任を大岡に頼むためだったのだと思う。
 「俳句」での丸谷の対談は、その後、「定家から芭蕉へ」(島津忠夫、昭49・11)、「勅撰集と日本文化」(樋口芳麻呂、昭50・5)をお願いした。島津忠夫は連歌研究の第一人者、樋口芳麻呂は勅撰和歌集の実証的研究者。丸谷は、名著『後鳥羽院』(昭48、筑摩書房。翌年読売文学賞)で展開した自説を再確認するかのように、『新古今和歌集』と連歌、勅撰和歌集の目的と機能、勅撰集と俳諧などについて、執拗に、意見を交した。
 丸谷は、十世紀の『古今集』から始まった勅撰集の歴史が十五世紀に終り、明治の末年には、詩と文明が結びつく時代が終ってしまったのだ、という。勅撰集の伝統が亡んだのは、天皇が恋歌を詠むことによって国を統治することをやめて、教育勅語によって国を支配しようとした時期になる。「ぼくは、天皇が恋歌で国を治める時代のほうが好きですね」(「勅撰集と日本文化」)。

 昭和55年8月号を最後に「俳句」の編集を離れ、9月号から「短歌」の編集担当となった。『図説俳句大歳時記』以来、なにかと世話になった安住敦は、
 「昨日まで『俳句』をやっていたものが、明日から『短歌』をやれとは、すごいことをするものだ。君、大丈夫かね」
と心配してくれた。
 私は、丸谷才一に対談のことを相談した。丸谷は、京都に小島吉雄という『新古今集』研究の大学者がいる。京都へ出向いてその人と話をしたい、といった。昭和55年11月4日、京都八坂新地の祇園浜作での対談「『新古今和歌集』と後鳥羽院」が「短歌」昭和56年1月号に載った。
 京都へ向かう新幹線のビュッフェで、丸谷は、
 「最近、こんな句が出来ました」
といって、ホープの空き箱に、

     しぐるるやだらだら坂の黒光り    才 一

という句を書いて示した。
 「印象鮮明な、情趣あふれる句ですね」
 丸谷は、昭和50年に中野十貫坂上(杉並区和田一丁目)から目黒のさんま坂(丸谷の命名、目黒区三田二丁目)に転居、坂に縁があった。句は、芭蕉が元禄3年9月末、御斎(おとき)峠越えで近江から伊賀への帰省途次「旧里の道すがら」に詠んだ、

     しぐるるや田の新株(あらかぶ)の黒むほど   芭 蕉

の本歌どりと読むこともできる。
 立冬まぢかの京都は、人出も少なく、落ちついた雰囲気だった。
 『後鳥羽院』で折口信夫とともに最も恩恵をうけたという小島吉雄との対談に、丸谷はやや興奮ぎみで、ときに頬を紅潮させ、学者の凄みに感激していた。丸谷の旺盛な好奇心と博識と記憶力は、小島をよろこばせた。後鳥羽院と新古今を論じる場として、晩秋の京都はまことにふさわしかった。
 「歴史の書き方」(『月とメロン』平20、文藝春秋)というエッセイで、この対談のことを書いている。
 「『新古今和歌集の研究』の、殊に続篇のはうをやんやと褒めると、非常に満足さうに喜んでゐた。そのときの嬉しさうな表情が忘れられない」。

 関西での対談では速記者もカメラマンも同行せず、テープ・レコーダーとライカを持参するのがつねだった。いまも手もとにあるフィルムには、祇園浜作での対談の写真とともに、祇園の茶屋で舞妓二人と酒を呑む丸谷の姿が写っている。丸谷の希望で、のちに連句仲間となる京都在住の仏文学者杉本秀(ひで)太郎に頼んで案内してもらったものだ。私が、丸谷の『日本文学史早わかり』(昭53、講談社)という本がいまベストセラーであることを話すと、九州出身という背の高い舞妓が、「私もぜひ読んでみたい」と祇園ことばで言った。丸谷はうれしそうに盃を重ねていた。その夜の費用は、後日、社の経理から送金することで了解してもらった。
 京都ホテルに泊まった翌朝、すこし路地を散策したいというので、柊屋、俵屋、炭屋などの和風旅館が立ちならぶ麩屋町通りを歩いた。入口に紫式部の鉢植えが置かれた仕舞屋ふうの喫茶店に入り、
 「エスプレッソはできますか」
と丸谷がきいた。女主人の碾くコーヒーのつよい香りが、狭い店内にひろがった。

 「ぼくも八十の大台になりました」
 毎年、二月の読売文学賞贈呈式で会い、短い言葉を交してきた。大正14年(1925)8月27日生まれの丸谷は、80歳を迎えたことに感慨があったようだ。丸谷が80歳となった平成17年(2005)9月11日付毎日新聞朝刊の書評欄に、『飯田龍太全集』第1巻と2巻(俳句Ⅰ、俳句Ⅱ)の書評が載っている。龍太よりも森澄雄に親近感をもつ丸谷だったが、機会があったら龍太俳句について書いてほしいと希って、毎巻寄贈していた。
 「君のところの雑誌に書くよりは、新聞のほうが効果が大きいだろうから、『毎日』のぼくのもっている書評欄に書くことにしよう」
 「『一月の川一月の谷の中』の俳人」という題で、龍太俳句の特色を明快に要約している。「一月の川」の句には甲斐という国名が秘められているという卓見は、読み巧者の丸谷の面目躍如。龍太俳句の特色を、心の優しさに裏打ちされた品格の高さ、高雅なユーモア、そして濃淡さまざまの色っぽさ、と指摘する。丸谷が龍太俳句について本格的に論じた初めての文章だった。
 後日、龍太もよろこんでいたことを伝えると、
 「うまくまとめたでしょう。龍太は、やっぱりいいねえ」
と豪快に笑った。

 平成24年10月13 日午前7時25分、心不全のため死去。87歳。宣長についての原稿を十貫坂上のマンション5階へもらいにいったときから、45 年が過ぎたことになる。特徴の緑色のインクで書かれた200字詰め原稿用紙19枚が、私の手もとに残っている。文字も文体も、すでに大人の風格がある。

     永き日や車内のひげの品さだめ    丸谷 才一
     見送りて目薬をさす帰雁かな
     藁しべで契るあはれの目刺かな
     しぐるるやだらだら坂の黒光り
       「樹影譚」仏訳刊行
     樹の影のいよよ濃くなる師走かな
     枕もとに本積めばこれ宝船

 『角川俳句大歳時記』全五巻編集の折、例句として採録したもの。古稀記念句集『七十句』所収。書名のとおり、70句を春夏秋冬・新年に分類して収録。一頁一句組み。以下、愛誦句より。

     りんりんと水音たかし春の坂     才 一
       チワワのチビトンを弔ふ 
     春昼のどこにかくれし座敷犬
     待花や西行坊がぬるごたつ
     昼飯に鮎一匹の長者ぶり
     あぢさゐを提げて家移り坂の下
     桜桃の茎をしをりに文庫本
       テムズ河畔のパブにて
     ぬか色の羽根ひろげてよ孔雀の子
       昭和五十六年八月二十七日
     五十六年前もこんなか蝉しぐれ
     夕もみぢからはじまりし宴かな
       細道の旅に「山中や菊は手折らで湯の匂ひ」と吟じ
       たまひし三百年の後その山中にて歌仙を巻くとて
     翁よりみな年かさや菊の宿
       酒場にて
     十月は袂であふぐ銀座かな
       礼状に
     とち餅や十五までゐた城下町
       礼状に添へて
     半ぜんは茶づけに加賀の今年米
       妻 に
     色つぽく眠るあのやま名は月山
       恵比寿にて
     餅つきの杵をよけるや坂の道
       郷 愁
     雪あかり家にみなぎる夜ふけかな
     雨傘の青たづさへむ雪もよひ
       初電話
     雪の足りぬ正月なりと母は言ふ
       寅年元旦
     虎は野にぞろぞろ放て年賀状

 総じて、挨拶と唱和の句が多い。散文では、広範な知識と批評精神を駆使して「丸谷ぶし」ともいえる世界を確立したが、俳句は初々しく抒情的で、エスプリがある。丸谷は、俳句といわず、発句という。これは、父から受けたただ一つの文学的影響だった。俳号玩亭は、石川淳(夷斎)の命名。
 上に引いた<夕もみぢからはじまりし宴かな>は、石川淳、丸谷才一、大岡信による歌仙「夕紅葉」の巻(1986年)の発句。初折の表6句は次のとおり。
     
     夕もみぢからはじまりし宴かな      玩 亭
      水屋に通ふこほろぎのこゑ       信
     草ふかき野のはて遠く月落ちて      夷 斎
      森を背にする一の宮あり        玩
     マンションを建てんとすれば古墳の地   信
      太刀の銘にておこる論争        夷

  相手によって想像力を喚起され、新しい詩の世界を創造するという共同制作の醍醐味を、丸谷は現代によみがえらせた。最後の歌仙は未完に終わったが、米寿記念の『八十八句』の出版はやがて実現するにちがいない。

 さきごろ、喜寿目前に病没した女性の遺歌集を編んだ。無名の一市井人の歌が、校正刷を読み返すたびにことごとく輝きを増すことに驚いた。月並なことをいうようだが、この世から永遠に去った 人のいのちが、歌の言葉にやどっている。『八十八句』の出版が待たれるゆえんである。          

       風雅一等のひと玩亭を憶ふ
     待春や天に哄笑りんりんと     赤榴子

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丸谷才一筆跡(『日本文学の歴史』第8巻月報、昭42


Category : 丸谷才一
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