石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

なげかひの血脈  −車谷弘−

     風花に京寂びたる格子かな   司馬遼太郎

 車谷弘の『わが俳句交遊記』(昭51、角川書店)が芸術選奨文部大臣賞を受賞したのは、昭和52年3月のことだった。それから半年後の9月27日から29日までの3日間、銀座8丁目の吉井画廊で受賞記念の文壇俳句展が開かれた。掲句は、このとき、自筆色紙として出品されたものである。
     かざはなにみやこさびたるこうしかな
 かな書きにして読み下せば、流麗な調べがこころよくひびく。K音四つが、句調に軽いうねりをもたらす。京都には、時雨とともに、風花がよく似合う。司馬の小説の一場面を想像するのもよい。<立春や嘉兵衛の里の古いらか 遼太郎>とともに、私の愛誦句となっている。
 私の手帖には、司馬の句のほかに、会場でメモしたつぎのような句がある。

     羅の袂に光る小銭入れ         和田 芳恵
     さし潮やけふの芥に女郎花       中里 恒子
     元朝に閂(かんぬき)外す真直ぐなり  永井 龍男
     地のはてに地の塩ありて螢ぐさ     山本 健吉
     かにかくに終の栖や嵯峨の雪      瀬戸内寂聴
     またも夏蟻かけのぼる竹の空      田久保英夫
     子鰯も鯵も一塩時雨かな        山口  瞳

 車谷は、このとき寄せられた文壇・俳壇の著名人たちの色紙を、背丈ほどの屏風に仕立て、文藝春秋の役員室に飾って翫賞していた。この屏風には、網野菊、飯田龍太、尾崎一雄、風間完、滝井孝作、戸板康二、富安風生、中村汀女、松本清張、水原秋桜子らの色紙や短冊も並んでいたはずだ。あの貼り交ぜ屏風は、その後どこへ行ったのか。文藝春秋へ電話できいてみたが、事情のわかるものがおりません、という総務部の女性の答えだった。
 それにしても、これだけの人々の色紙が寄せられたことは、車谷が編集者としていかに作家たちの信頼を得ていたかを証するものといってよい。編集という激務のなかで、身を粉にして作家とつきあい、長年、文壇句会の裏方をつとめた。最も忙しかったときが、最もよく遊んだときだった、と車谷は述懐している。

 車谷からもらった手紙のなかに、巻紙に毛筆で書かれた一通がある。句読点を補って記せば、
 「昨日は失礼いたしました。そのせつお話ししようと思って忘れたのでこの手紙をかきます。『俳句交遊記』の一ページ目の裏に広告がきますと、活字がよみにくくなるので、出来たら裏へ広告がこないよう御配慮いただけたらお願いしたいなと思ったことでした。もっともこれは編集の都合の方が優先するので、たってというわけではありません。どうか大兄はそんなことかまわず御都合のいいようにお仕事は進行して下さい。笑い乍らお話してみようかナと思ったことを話し忘れたので書いてみたまでです。(昭和五十年)十二月五日 車谷弘」。
 表面はおだやかだが、有無をいわせぬ靭さがあった。
 車谷は69歳、文藝春秋専務取締役。私は39歳だった。
 誌面の見栄えや読みやすさばかりでなく、目次や新聞広告のつくりかたなど、車谷から学んだことはたくさんある。誌面づくりに細心の配慮と、なによりも愛着をもつことを身をもって教えてくれたのだった。
 そればかりではない。車谷が半世紀ちかく文壇、劇壇、画壇等の人々との交わりのなかから体得した知識と教養とを、後進に伝えたいという熱意をひしひしと感じることがあった。車谷の好きだった銀座の名店へ連れていってくれたり、料亭金田中の2階大広間での財界人の昼食会へ同行したり、貴重な社会体験をさせてもらった。
 軽妙洒脱な文章と同様、彼の話術にも高踏的な味わいがあった。芸術選奨祝賀会でのスピーチでは、はじめに、何を言いだすのかと聴衆をはらはらさせておきながら、一転、旧知の文部大臣海部俊樹をもちあげて拍手喝采をあびた。これも、一流の人々との交流から身についたものだったのだろう。

 雑誌連載を単行本にするときにも、手紙をもらっている。
 「さきほどは電話で失礼しました。私としては六十年この形式で文章をかいてきたし、社も指導してきたので、雑誌の場合はともかく、単行本の場合はこの形式をまもりたいと思います。私にとっては生涯にとってただ一冊の本かもしれないので愛着があるのです。あなたの方も同じように永年の形式をくずしたくないお気持はわかりますが、出来たらわがままをおゆるし下さるよう出版の方におねがいしてみて下さい。お互いに好みの問題でたいしたことではないようでいて、実はたいしたことなのでかくはお願い申上げる次第です」。
 たとえば、文頭の鉤括弧(かぎかっこ)の位置ひとつにしても、岩波方式、文春方式、角川方式と微妙な違いがあった。それらの決定は出版部の判断によってなされていたが、車谷の本の場合は彼の希望どおりでおしとおした。
 本の装丁も、みずからデザインした。表紙カバーの表と裏に、登場人物として40名の作家たちを列挙するという斬新なアイディアだった。40名の筆頭には、車谷が師と仰いだ久保田万太郎の名前がある。万太郎生前最後の句集『流寓抄』(昭33・11、文藝春秋新社)は、企画・装丁ともに車谷によるものだった。函いっぱいにペルシャ模様を配した装丁に、万太郎は度胆を抜かれたようだったが、満66歳の誕生日に見本が出来あがったことを喜んだ。車谷の内心の欣喜雀躍ぶりが、私には容易に想像できる。
 万太郎の処女句集『道芝』(昭2・5、友善堂)の序で、芥川龍之介が「東京の生んだ『歎かひ』の発句」と述べたことはよく知られている。嘆かいの血脈は、車谷にも継承されている。「交遊記」中の「湯豆腐」は、
     湯豆腐やいのちのはてのうすあかり     万太郎
の作句現場と作品背景が情感ゆたかに描かれている。
 本が出たばかりのとき、顔見知りの詩人中桐雅夫から20冊の注文を受けた。
 「この本は名著だから、友人たちに配りたいのです」
といって、絶賛した。

 「俳句」の昭和52年4月号から、『わが俳句交遊記』の続編として「俳句的アルバム」の連載がはじまった。20回つづけて、単行本にする予定だったが、52年11月号の8回で中断した。
 私は12月20日、お茶の水の順天堂大学付属病院へ見舞いにいった。ベッドに座って、すこし虚ろな表情にみえた。
 「どうしても、気分がおちつかず、書く気になれないのです。癌ではないと思うのですが、結核菌が出ないので、肺結核でもないらしい」
 医師も家族も、癌の告知を控える時代だった。
 昭和53年4月16日午前零時20分、永眠。71歳7か月。新聞の死亡記事は、密葬が終ったあとに掲載された。

 4月18日、伊東駅ちかくのお宅へ弔問にうかがった。この家のことは「俳句的アルバム」第1回の「大洪水」に詳しく書かれている。建築家で、加倉井秋をの俳句の弟子でもある清水一の設計による平屋造り。一目で、優雅な気品が感じられる。人に人格があるように、家にも家格というものがある。
 仏前には、十数個の個人名の生花と遺影、そして、
   大泉院釋文耀居士
という戒名がまぶしく輝いていた。
 手紙にあった「生涯一冊の本かもしれない」という予感は的中した。「俳句」53年7月号に車谷弘追悼として、つぎの文章が載っている。
  永井龍男 「一つ釜の飯」
  吉村昭  「御焼香」
  車谷よそ 「臨終まで」
「俳句的アルバム」をふくむエッセイ集『銀座の柳』が昭和55年6月、文藝春秋から出版された。「俳句」連載の最後となった「きぬかつぎ」にも、久保田万太郎が登場する。咳に悩まされ、病への懐疑をいだきつつ、万太郎について書くときの「文耀居士」の胸中が偲ばれる。
 半世紀ちかい交友をつづけた永井龍男が、跋文で「車谷君の書くものの特徴を、一口に云えば、角のとれた文章と私は思っている」と言い、「人物描写の名手」と称えた。

 車谷には『佗助』(昭46、牧羊社)『花野』(昭51、牧羊社)という2冊の句集がある。
 『佗助』では跋文として、中村汀女、江藤淳、山本健吉、飯田龍太が、作品を引きながら、その人柄を多面的に語っている。一言でいえば、もののあはれが根底にある、ということ。幼時実母と死別したこととも関連するかもしれない。芥川のいう「歎かひ」である。

 以下、愛誦句より。

     死者はみな仕合せならむ天の川     車谷 弘
     遅れきて佗助に眼のやりばかな
     老妓耳とほし桑名の春惜しむ
     雷すぎてなほ海昏し出雲崎
     河豚鍋や少女をつれし老作家
     陽炎の白骨と化し給ひけり
     敗戦の銀座に雁をみし記憶
     秋風や机上に何も置かぬくせ
     秋ふかし碑文撰みしひともなく
     万太郎眼鏡ふきをり初蛙       (以上、『佗助』)
     落花まふ庭にあるじの東門居
     白玉の甘き愁ひに旅惜しむ
     京にゐることのやすらぎ秋日和
     金屏に舞ふや静の杖と笠
     銀座の灯夜更にすみて秋深き
     花冷の火鉢をかこむ法事かな
     鰐口のひびきも露の山深き
     水巴忌の寺に竜胆とどけしが
     芍薬に井伏鱒二の書をかかぐ
     白地きて見送りくれし京都駅
     柵白く牧場とへだつ花野かな
     つれだちて月ふりかへる鷹ヶ峰
     次の間の闇も匂へり畳替       (以上、『花野』)
 

 編集者として向田邦子など幾多の作家を生みだした名伯楽は、文壇俳句会で作家の俳句的能力を引きだした功労者でもあった。70歳を境に、これから本格的に文筆活動に入ろうという矢先、病魔に斃れたことの無念さがあらためておもわれるのである。

          春泥や偲べばひとの耀ひて     赤榴子


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『わが俳句交遊記』カバー(上は著者直筆、下は実物)




Category : 車谷弘
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