石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

昨日の今日となりしかな −山本健吉−

 山本健吉を東京・市ヶ谷一口坂の九段コーポラスへ訪ねたのは昭和38年、『図説俳句大歳時記』全五巻の監修者依頼のためだった。写真で見なれた和服姿の気むずかしそうな健吉は、妻の静枝、一人娘の安見と居間でくつろいでいた。文学全集ブームがしずまりつつあるころだった。無口で、怖い人ときいていたが、そんなことはなかった。
 その後、『現代俳句大系』第七巻(昭47・9、角川書店)に石橋秀野句文集『桜濃く』収録の許諾を得るべく、ひとりのときに来るようにといわれ、指定された日時に転居したばかりの赤坂のマンションを訪問した。終の住処となった港区赤坂8-12-4 ニュー赤坂コーポラス312号。塵ひとつない、整頓された応接間のソファに対座した健吉の端正な挙措には、文学者としての風格がにじんでいた。
 妻静枝の前で石橋秀野について話すことはタブーとされていた。私にはそれが奇異なことと思われたが、健吉はやはり頑迷に人前で秀野について語ることをしなかった。私と二人だけの席で、『大系』への秀野の入集を喜び、用意した許諾の書類と印税の振込み先に署名捺印した。そうして、新刊の『大伴家持』(昭46・7、筑摩書房)に献辞をしたためてくれた。

     鳥が鳴く吾妻秋草恋ひ泣きし     山本 健吉

 秀野が京都の国立宇多野療養所で亡くなった翌月の昭和22年10月19日、追悼句会での一句だ。健吉22歳、秀野20歳の昭和4年に結婚。戦中・戦後の貧困と病のなかでの流離の果てに38年の生涯を閉じた秀野。同時代の俳人たちの多くが泉下の人となったいま、秀野の文学だけが真に新しく、不滅であるとの思いがつよい。私は後年、『定本 石橋秀野句文集』(平12・7、富士見書房)を企画編集して、ひそかな記念碑とした。
 健吉(俳号竹青)が新婚時代に秀野とともに出席した「愛吟」代々木支部句会報など「愛吟」に発表した俳句は次のようなものだった。

     噴水に青嵐さわぐ一しきり      竹 青
     砂吹くや若葉林の遠鳴りに
     蜩や松風うなり吹くなべに
     遠雷や縁に干しある革蒲団
     雲仙の影さす蚊帳や明易き
     水打つて紫陽花に暫し佇みぬ
     厠より見ゆる薄のほほけたる
     秋雨につやゝけき桐の樹肌かな
     掃き溜めてそのまゝ措きし落葉かな
     子等寄りて社の前の日向ぼこ
     塗りかへし表がまへや年の暮

 若さの才気をおさえた、温和で平明な写実の句である。健吉が「愛吟」時代の句作体験について書いた文章はなく、みずから語ることもなかった。だが、俳句評論家として、『現代俳句』(昭26・27、角川新書)や『純粋俳句』(昭27・12、創元社)を書きすすめるなかで、その実作体験はきわめて有効なものであったにちがいない。

 昭和49年8月28日夕刻より、軽井沢の万平ホテルで山本健吉と井上靖との対談が行われた。テーマは「利休と芭蕉」、同年10月号の「俳句」に掲載。健吉と井上とは、ともに明治40年(1907)、健吉が4月26日、井上が5月6日の生まれ。
 健吉の大部な『文藝時評』(昭44・6、河出書房新社)を開いてみると、「改造」昭和26年6月号に次のような一節がある。
「井上靖の『澄賢坊覚え書』(文学界)は、一種の考証小説として、探偵小説的な興味で引きずられたが、最後に空想的になぞった部分ではぐらかされた。澄賢の人物像が、急に文学くさくなってしまったからである」。
 また、昭和30年12月26日付「朝日新聞」では、
 「井上靖の『姥捨』(文藝春秋)は佳作である。伝説と風景と日本の家の問題とが、模様のように巧みに一つに織り出されている。だが、この作家も、一定の主題を集中的に押しだした長編を書く時期に、もう来ているのではないか」
と示唆している。
 対談では、健吉の茶道への関心と知識の深さに驚いた。利休が完成した侘茶を軽みの極致といい、利休の死は精神界の王者と俗界の最高権力者とのあいだに必ずおこる悲劇であった、という。
 「だからわたしは、利休は小説に書けるけれど、芭蕉は書けないと思うんです」
といった井上が『本覚坊遺文』を発表したのは対談から7年後の昭和56年だった。
 対談後、健吉は井上の別荘によばれているからといって出かけ、深夜にホテルへ戻った。
 対談から3か月後に、健吉は思索的エッセイ「一期一会、一座建立、独座観念」を「俳句」新年号に発表した。
 これは世俗的なことだが、昭和51年、井上が文化勲章を受賞したときの推薦論文を健吉没後に目にしたことがある。井上文学の世界と本質を論じた畢生の井上靖論だった。
 「俳句」に掲載したもうひとつの対談「神・自然・藝術」(岩田慶治、昭51・7)を含む対談・鼎談9編を収めた初の山本健吉対談集『自然と藝術』(昭52・2、角川書店)を私は編集した。
 対談集から3年後に企画編集した俳句随想集『漂泊と思郷と』(昭55・2、角川書店)も忘れがたい一冊だ。
 「私が俳句論集を出したのは、昭和二十七年の『純粋俳句』、同じく三十一年の『俳句の世界』以来のことである。(略)折々に書いた俳句についてのエッセイは、相当の量となった。『俳句』の編集者鈴木豊一君が、それを根気よく集めてくれ、ここに見られるような文集としてまとまった」(あとがき)。
 この一書では、健吉の俳句論が滑稽・挨拶から軽みへと変貌してゆく過程がくりかえし説かれている。健吉の軽み論は、当時の俳壇に容易に受けいれられなかったが、いま、老年の俳句作者にとって天啓のような指標となっている。

 私は、50歳を目前に、人事異動で角川書店に辞表を提出した。子会社で「俳句研究」の編集を担当することとなり、新しい道がひらけたのだが、挫折感はぬぐえなかった。むかし感動した「高館『奥の細道』叙説」(昭18・6、「批評」)を思い出し、高館(たかだち)へ旅をした。北上川とその支流衣川を見おろす小高い丘に佇って、義経主従の無念を思った。ボタンを押すと『おくのほそ道』朗読のテープが流れる。
 「先づ高館にのぼれば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城(じやう)をめぐりて、高館の下(もと)にて大河に落ち入る。(略)さても義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打ち敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。/夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」。
 古戦場での芭蕉の慟哭を追体験するのに高館以上にふさわしい場所はない。人っ子ひとりいない高館の丘に流れる『ほそ道』朗読の声にこころ洗われ、勇気づけられた。
 健吉は、「慟哭が歴史を喚び起すのだ」と断言する。そして、いう。
 「芭蕉の生活の俳諧は結局歴史への情熱に繋がる道であった。庶民の胸に生きる感動を己れが心としている限り、芭蕉の俳諧は豊かなイメージと弾んだ呼吸づかいとに事欠かなかったのである」。
 健吉の「高館」には、義憤と激情が吐露されている。「高館」執筆の昭和18年(36歳)、軍部迎合派の圧力のため、改造社を退社する。「俳句研究」の後任編集長に内定していた石田波郷の改造社入社もとりやめとなった。その事情は、晩年、「俳句研究」に連載した『昭和俳句回想』(聞き手・川崎展宏。昭61・12、富士見書房)に述べられている。

 「短歌」編集担当のとき、健吉の短歌論集『短歌 その器を充たすもの』(昭57・3、角川書店)を出版した。書名となった一編は、初出時、「迢空晩年の歌論」と副題するとおり、迢空の短歌無内容論を、人麻呂の歌の虚辞などを例に展開したもの。
 「こういう考え方は、自然主義以後の日本近代文学の考え方からは、まったく遠い。『第二藝術』論以後の日本の伝統詩歌の考え方からも隔っている。短歌・俳句などを、このような近代文学の立場から割り切ることは、えてして不毛の裁断批評に陥り、日本の短詩の最もよい部分を抹殺してしまうことになりかねない。そのことを迢空は怖れた。短歌という愛すべき詩形の運命は、彼にはひとごとではなかったのだ」。
 これは、健吉の俳句における「軽み」の論と共通する認識だった。
 作家にせよ、評論家にせよ、作品を生みだすまでには長い助走の期間がある。健吉は、大学予科時代、横山重の『枕草子』講読のとき、特別に迢空本人から一時間の『枕草子』概説を聴かせてもらった。「まくら」の説を感動して聴いた最初であった、という。短歌における枕詞と歌枕への思索がここに胚胎したのであった。

 社員旅行で長崎へ旅行したことがある。全員がハウステンボスに一泊。こんな豪華な社員旅行はあとにも先にも初めてのことだった。現地解散のあと、私はひとり、バスで島原の原城址をたずねた。健吉の句碑を見るためだった。観光客の姿はなかった。

     薯畑にただ秋風と潮騒と          健 吉
     地の果に地の塩ありて螢草
     幸ひなるかなくるすが下の赤のまま

 句は、昭和35年10月、NHK主催の講演会のため、正宗白鳥と長崎へ行ったときの作。句碑除幕は、昭和63年4月3日、亡くなる一か月前だった。
 健吉の文学碑はほかに、長崎市諏訪神社境内の「母郷行」(昭和59年11月3日除幕。裏面の撰文は井上靖)、岩手県北上市・日本現代詩歌文学館の「夢中落花」(平成5年5月21日除幕)がある。ともに設計は彫刻家の舟越保武。「夢中落花」の式には私も出席した。
 舟越設計の二つの文学碑を見て、碑もまた芸術作品であり、石にも魂のこもることを知った。清爽な品格が、見るものを惹きつけるのだ。

 18歳のとき初めて読んだ『現代俳句』(上・下)以来、山本健吉から学んだものは計り知れない。思索を深めつつ、創意・創見に充ちて読者を決して裏ぎらないこと。それが批評家の責務であることを、健吉は肝に銘じていた。文学なかんずく詩歌への愛情と熱意とに、私もまた励まされることが多かった。
 福岡県八女市本町、浄土宗若泰山光明寺無量寿院の「石橋家累代之墓」に石橋秀野と並んで合葬された健吉の墓へ詣ったとき、その簡素なたたずまいに心うたれ、合掌した。

     こぶし咲く昨日の今日となりしかな     健 吉


kenkichi.jpg


葉牡丹に伐折羅(ばさら)迷企羅(めきら)の集ひかな     山本健吉








Category : 山本健吉
Posted by sekiryusha on  | 0 comments  0 trackback
このカテゴリーに該当する記事はありません。