石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 |                      by Toyokazu Suzuki

補陀落の海  −角川源義−

 昭和35年、角川書店入社の折、社長室での最終面接で源義社長から入社目的を問われ、「俳句」編集担当を希望した。「好きな俳人はだれか」と聞かれ、「飯田龍太です」と即答した。「龍太かあ、蛇笏もいいぞ、君もそのうちよさがわかるよ」。

 源義は蛇笏の遺徳を敬慕し、昭和42年、俳句界最高の栄誉として、蛇笏賞を設定した。

 入社の年の2月25日、源義はエッセイ「姨捨の海」を毎日新聞に発表。11月6日、第2回「河」全国大会を大阪で開き、その後、「河」の人々と紀伊田辺より新宮まで、熊野古道を歩くことになった。入社直後の私は金の用意がなく不参加のつもりだったが、源義は「たてかえてやるから、ぜひ行きなさい。こんな機会はない」と、即座にポケットから3万円を貸してくれた。九十九王子をバスで、瀞八丁をプロペラ船で周遊した。後年、社長室へひとり呼ばれ、黒板いっぱいに広げた古図、熊野曼陀羅を見せられた。「ここに小さな舟が見えるだろう、これが補陀落渡海の僧だよ。西方の落日に向かって漕いでゆくのだ、熊野の海にも山にも浄土があったのだ」と、嬉々として説明してくれる。こういった源義とのやりとりから『日本民俗誌大系全十二巻』の企画が生まれた。この大系刊行途中、突然「俳句」の編集担当を命じられた。14年を経て、入社当時の目的がやっとかなえられた。

 昭和50年の蛇笏賞は、石川桂郎。授賞式は6月、市ヶ谷の私学会館で行われた。記念講演の源義は、食道癌の桂郎の俳句について、持ち時間をはるかに超過し、いっこうに終わる気配がなかった。私は、早くまとめるようにと記した紙片を二度、源義に渡した。このとき、源義も肝臓癌の末期であったが、病名は伏せられていた。鬼気せまる熱弁だった。
 この授賞式から4か月後、源義、桂郎ともに鬼籍のひととなる。

 昭和50年10月19日(日)夜、入院中の源義から自宅あてに電話がかかってきた。かぼそく消えいらんばかりの声だった。「君の好きな篠原梵が亡くなったね。「俳句」の見本はいつできるかね」「明日、できる予定ですので、病室へお届けします」。
 翌日、病室へ「俳句」11月号を持参した。巻頭に源義の「三番日記」30句を掲載。初めての巻頭作品を、しきりに指さきでなぞっていた。 

(「月刊俳句界10月号(平28)」 文學の森 掲載)

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霊園にしるべのえごの花散れり     赤榴子


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昭和42年2月、奈良県・天武持統合葬陵

Category : 角川源義
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今月の一句 <三月>

春の雲人に行方を聴くごとし  飯田 龍太


 第三句集『麓の人』(昭40、雲母社)所収。昭和36年(41歳)作。青春の抒情が溢れるような一句だ。

 山梨県立第一中学校の英語教師だったことがある天文民俗学者の野尻抱影(本名正英<まさふさ>)は、甲斐のくにの雲の美しさを絶賛した。
 父蛇笏は「白雲去来の山廬」と自ら称した。


     夕されば春の雲みつ母の里     龍 太   『百戸の谿』
     春めくと雲に舞ふ陽に旅つげり         『 〃  』
     荒波に黒雲迫りさくら咲く           『 忘 音 』
     いづこにも雲なき春の滝こだま         『 〃  』
     春の雲椋鳥寺の辺を好み            『 春の道 』
     滝音はひかりを含み春の雲           『 山の木 』

         
 龍太には<いきいきと三月生る雲の奥(『百戸の谿』)>という句もある。三月が雲の奥から生まれる、というのがなんともしゃれている。  
 春夏秋冬いづれの雲にも味わいがあるが、私は春と秋の雲が特に好きだ。


近からん旅の終りや春の雲   赤榴子



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句集『百戸の谿』口絵


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句集『百戸の谿』(昭29、書林新甲鳥)


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山梨県境川村 自宅にて(平成5年)

Category : 三月
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今月の一句 <二月>

立春の雪のふかさよ手鞠唄   石橋 秀野


 句文集『櫻濃く』(昭24・3、創元社)所収。昭和21年、疎開先の松江市南田町・初音館での作。「立春」「雪」「手鞠唄」と季語が三つも入っている。それでいて、まぎれもなく「立春」をことほぐ句となっている。

 秀野は昭和4年9月(20歳)、慶應義塾大学国文学科2年生だった石橋貞吉(山本健吉・22歳)と結婚。丸の内界隈では、その美貌が注目されていた。17年1月20日、長女安見子誕生。昭和22年9月26日、療養中だった京都の国立宇多野療養所にて死去。享年38。

 私は『定本石橋秀野句文集』(平12・7、富士見書房)を企画編集した。秀野の資料は少なく、目にふれる機会が少ないため、以下、やや多めに俳句を句文集『櫻濃く』より引いておく。
     
     寒梅やつぼみふれあふ仄明り
     花八ツ手まぢかき星のよく光る
     毒だみや十文字白き夕まぐれ
     つばくらめ来たり廃園射る如く
       墨堤
     櫻濃くジンタかするゝ夜空あり
       父小野氏母石ノ上氏
     初ひゝな陸奥(おく)と大和の御祖(みおや)かな
       桂郎さんへ返りごと
     初袷やせて美(は)しとは絵そらごと
       波郷氏出征
     征く君に熱き新酒とおぼえけり
     子にうつす故里なまり衣被
     秋立つと仏こひしき深大寺
     やゝ寒やとぼしきまゝの髪油
       空襲昼夜を分たず
     ものゝ芽に刻々の日のあはれかな
     烏賊噛めば隠岐や吹雪と暮るゝらん
     風炉すゑて魚もやくなる二月かな
       船上山麓にて
     風花やかなしびふるき山の形(なり)
       子にさとして
     青蠅や食みこぼす飯(いひ)なかりけり
       鳴滝といふに一時の宿りを得て
     斑猫や松美しく京の終(はて)
       家人に
     労咳に眉生えつゞく暑さかな
       橋本多佳子夫人とありて
     別れ蚊帳老うつくしきあしたかな
       文章書かぬ言ひわけに
     筆折つて藷に寠るゝ六腑かな
       木屋町
     鳥渡るをみなあるじの露地ばかり
     冬めくやこゝろ素直に朝梳毛(くしげ)
       停電連夜の慣ひとなる
     手さぐりてインク匂へる霜夜かな
       自嘲
     あかゞりや飯欲り哭(な)けば猿の顔
     子や待たん初買物の飴幾顆
     納豆に飯ふき啖ふ松の内
     小夜時雨枢(くるゝ)おとして格子うち
     日脚のぶ煤ひと筋を後れ毛に
       山廬先生の還暦を祝ぎまつる(五句のうち一句)
     かげろうふの甲斐はなつかし発句の大人
     柳絮とぶや夜に日に咳いてあはれなり
     病み呆(ほ)けて泣けば卯の花腐しかな
     卯の花腐し寝嵩(がさ)うすれてゆくばかり
     緑なす松や金欲し命欲し
       家人に
     短夜の看とり給ふも縁(えにし)かな
       病みて百日ちかし
     男手の瓜揉親子三人かな
     妻なしに似て四十なる白絣
     梅雨の雷子にタン壺をあてがはれ
     裸子をひとり得しのみ礼拝す
     大夕焼悪寒に鳴らす歯二十枚
     西日照りいのち無惨にありにけり
     子を離す話や土用せまりけり
     大夕焼消えなば夫の帰るべし
       七月六日夜(三句のうち二句)
     遠花火とりすがれるは冬布団
     火のやうな月の出花火打ち終る
     夏の月肺壊(く)えつゝも眠るなる
       七月廿一日入院
     蟬時雨子は担送車に追ひつけず

 絶筆となった「蝉時雨」の句には、『古事記』のヨモツヒラサカの別れを象徴するような、神話的な雰囲気がある。
 戦後の貧窮のなかで、いのちの絶唱を詠いつづけた。女流俳人による人間探求俳句であった。
     

閨秀の流離うべなふ余寒かな   赤榴子


昭和17年5月29日、大原稲荷へ長女安見子宮参り

Category : 二月
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今月の一句 <一月>


よろこびはかなしみに似し冬牡丹  山口 青邨


明治25年盛岡市生まれ。みちのくびとの素朴な人柄が万人に愛された。

     みちのくの雪深ければ雪女郎         青 邨
     みちのくの鮭は醜し吾もみちのく
     みちのくの町はいぶせき氷柱かな   

昭和12年、44歳の青邨はベルリン工科大学に留学をしている。2年間の海外生活でも多くの句を残した。海外詠の先駆者と言えよう。

       伯林
     舞姫はリラの花よりも濃くにほふ
     ライラック咲けば伯林のことなどを
     
科学者でありながら抒情的な詩人的感性をそなえていた。
「俳句の写生は科学と全く同じであった。複雑なものを単純化して一つの法則を作ることは科学者のすることであった。」「科学も文学もものを観察することは同じだ。ただその後の処理の方法が違ふ。」と言っている。

夏の頃、杉並区和田の青邨を訪ねたところ、当時83歳の青邨は、和服の尻をはしょり、庭をはいずりまわるように草むしりをしていた。雑草園の名のとおり、仰々しい門構えなどなく無造作な、青邨の人柄そのもののような青邨邸であった。


年始客ひとりに妻の華やげる    赤榴子


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昭和50年7月26日、東京杉並・雑草園にて

Category : 一月
Tag : 山口青邨
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作句へのヒント −俳人名言抄− (5)



杉田久女(1890年 - 1946年)

 私宅でする毎月の研究会に皆さんがもちよらるゝ句を拝見して其都度痛感する共通な欠点は、句作の態度、句の材料、見方、よみかた写生のしかたにすべて熱が足らず浅いといふ事である。格別興味もない通り一遍の題材を、ほんの一目見たまゝ浅い句を芥でもかきあつめる様にして持参される事である。興味もわかず、ほんのお座なりな事務的な態度で写生した句の多いい事である。句作の上に興味といふ事は是非必要な事で、一つの題材にふかい興味もって佇み観察し、写しとる所には必ず拙くても何か季題独得のものを発見する。
 だからまづ第一に興味をもってよく眺める事、興味を一点に集注して作句する事が必要だとおもふ。
 興味がわけば自然感情も高潮し、言葉は心の扉から流れるやうに十七字詩となってひゞきを発しませう。よしそれが一度でよい句にならずとも、か様な態度で一年、二年、五年十年と作句する中にはかたくなな自然も遂に必らず何かすてきなインスピレーションをあたへて呉れませう。
(鈴木豊一編 『杉田久女読本』)



Tag : 杉田久女
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