はるかなる墓碑 −福永耕二−

 福永耕二の死は唐突だった。昭和55年12月4日、敗血症に心内膜炎を併発して急逝。42歳と10か月だった。耕二は心臓の持病があり、常時救急薬を持ちあるいていた。黒いベレー帽に人なつっこい笑顔をたやさなかった好人物の不意の死は、俳人たちに大きな衝撃をあたえた。妻子を遺して40代で絶命するということが、同世代の私にはとてもひとごととは思えず、大きなショックを受けた。
 「馬酔木」最後の発表となった作品は、次の7句だった。

     栃落葉了へたる庭に戻り来ぬ    福永 耕二(昭56・2「馬酔木」)
     海桐の実砕けてものを思へとや
     山茶花の散華いちじるしき一樹
     病室に子恋つのらす十三夜
     退院の祝杯のまだ林檎汁
     侘助や生徒に会はぬ五十日
     ぼろぼろの身を枯菊の見ゆる辺に

 耕二は死の前年春、千葉市磯辺に転住。殺風景な庭に次々と苗木を植えるよろこびを詠っている。

     苗木さへ泰山木は鬱たる樹     耕 二
     栃植えてよりわが庭も凡ならず
     日曜大工日曜庭師芝青む
     いつぽんの鞭の真青き梅を植う
     リラ植えてリラの曇の昨日今日
     菜種梅雨ややに根付くか樹も人も
     朴植えて凡日を凡ならしめず
     身に沁みて庭木まばらの庭に佇つ

 いずれも昭和54年の作。丘陵の家の庭に山の木を植えてゆく親子の姿を描いた庄野潤三の家庭小説『夕べの雲』を私は思いだした。その庭木を眺めながら、林檎汁で退院の祝杯をあげるつかのまの安堵と不安と。そして再入院、病急変して不帰の人となる。「ぼろぼろの」の句は、遺句集『散木』の最後におかれている。

 能村登四郎句集『冬の音楽』(昭56、永田書店)に耕二追悼の四句が載っている。

         福永耕二の突然の死に
     言なくて凍る夜をただ立ち尽くす     能村登四郎
     豊頬や若さを余す寒の死者
     耕二ぼろぼろもつとも嫌ひし冬を逝けり
     遺児といふ寒き名負ふもこの夜より

 「歳末には私のよき後輩として育てた福永耕二の突然の死に遭った。その前途に大きな期待をもった作家だけに痛恨が今も疼いている」とは、句集後記の一節である。

 福永耕二は昭和13年1月4日、鹿児島県生まれ。私立ラ・サール高校から鹿児島大学文理学部に入学。35年、同校国文科を卒業、純心女子高校に赴任。39年、国分実業高校に転任。同年8月、九州歴訪の能村登四郎と会う。40年、登四郎の推輓により上京し、4月より私立市川高校国語教師となる。42年、馬酔木新樹賞を受賞。結婚。45年、「沖」創刊に参加。「馬酔木」編集を担当、47年より55年まで編集長。句集は『鳥語』(昭47、牧羊社)、『踏歌』(昭55、東京美術)、『散木』(昭57、東京美術)の3冊。
 第一句集『鳥語』は、昭和33年より47年までの449句を収録。劈頭の、
     浜木綿やひとり沖さす丸木舟     耕 二
は、「馬酔木」昭和33年7月号の水原秋桜子選作品欄で巻頭となった5句中の1句で、大学2年のときの作。他の<著莪の花旅の日焼のいさぎよし><仔の馬も草を背負へり朝雲雀><日覆や波止にならべて鰹売る><岩山が雲堰き立てり夏わらび>など4句は句集から省かれている。

     棕梠の花海に夕べの疲れあり     耕 二
     菜の花や食事つましき婚約後
       長男克子夏誕生
     父となるたやすさ春の鳩見つつ
     子の蚊帳に妻ゐて妻もうすみどり
       波郷先生告別式
     さざんかの散華白妙波郷逝く 
     泳ぎ来し髪をしぼりて妻若し
     錦木や鳥語いよいよ滑らかに
       次男新樹誕生
     産声や天に槻の芽くぬぎの芽
     香水瓶涸れて久しき二児の母
     連翹や朝のひかりのまつしぐら
       父死す 享年六十一歳
     天寿とはいへぬ寒さの蕗の薹
     陽炎につまづく母を遺しけり

 句集名の「鳥語」は、鳥の鳴き声のこと。『鳥語』が出たあと、結社誌などにこの言葉の句をみかけ、耕二の影響力を思った。境涯詠、自然詠ともに、清新な抒情が匂いたつような、若々しく颯爽たる印象だった。
 第二句集『踏歌』は、昭和47年から53年までの463句を収録。「題とした『踏歌』は、李白の詩にも出ているが、『連袂踏歌』などと使われ、足踏みしてうたう歌というくらいの意である。この七年間は私の三十代後半にあたり、怱忙の裡にも仲間と交歓し、充実した時期であった。それを記念する思いもある」とあとがきに記す。

     雲青嶺母あるかぎりわが故郷
     茂吉らが歌の雄ごころ朴咲けり
       長崎・西坂
     燕が切る空の十字はみづみづし
     水底の日暮見て来し鳰の首
     凧揚げて空の深井を汲むごとし
     燕来て魜もつばさを張らむとす
       長崎行
     山垣のかなた雲垣星まつり
       相馬遷子氏逝く
     師を葬る日も浅間嶺の雪絣
     泰山木愁眉ひらけと咲きにけり
     薫風のみなもとの樟大樹なり
     母の日の来るよ不幸を量るため
     新宿ははるかなる墓碑鳥わたる

 最後の「新宿は」の句は「俳句」昭和54年1月号、「特集・現代の俳人 福永耕二」の「夕澄」20句の巻頭句として発表された。新宿の淀橋浄水場のあとに最初の超高層ビル京王プラザホテルが完成したのは昭和46年のこと。その後、林立するビル群にこの句と同じ思いを抱いた人は多かったはずだ。それをみごとに代弁した、印象鮮明な一句である。その時の「俳句」編集後記に私は次のように書いた。
 「本号福永耕二氏の『魚野川にて』の述懐はすがすがしい。救いが外から来ない以上、自分の魂を清らかに保つよう努めるほかはない。俳句の季物、素材は肉眼で見るが、作品を結実するのは心と言葉、内面凝視が欠かせない」。

 耕二から「馬酔木」編集長をやめるという話をきいたのは、ある俳誌の祝賀会の折だった。あんなに寂しそうな耕二を見たことはなかった。私もそのころ、「俳句」から「短歌」の編集担当への移動を告げられていた。
 昭和55年7月29日、「俳句」の編集を去ることになった私のために、草間時彦・村山古郷の発企により、俳句文学館で俳人の集いが催された。耕二も能村登四郎、林翔とともに出席。耕二から「馬酔木」編集の苦心談や、亡き相馬遷子への賛辞を熱っぽく語るのを同感しつつきいた。

 『散木』より。
     還らざる旅は人にも草の絮     耕 二
       仰臥
     露けくて一流木のごとき形(なり)
     粥食つて腹透き徹る白露かな
     病めば夜の永劫かとも柿一顆
     冬に入る仰臥や胸に書を載せて
     点滴に縛されし手の冷えまさる
     患者食なべて薄味かぶら汁 

 句はこのあと、初めに引いた「馬酔木」最終発表作へとつづく。
 読みかえせば、どの句にも無念の憾みと祈りのこころとが感受される。

 新宿の超高層ビル群を遠望するとき、天駆ける耕二の霊魂を幻想することがある。優れた作品は、作者の死後、読者の心の中で自在に成長する。耕二の句もまた、そのようにして、忘却と蘇生とを繰りかえしつつ、高い位を得てゆくにちがいない。
shinjuku.jpg
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る    福永耕二
新宿超高層ビル(新宿区西新宿)

異端と正統 ―赤尾兜子―

 赤尾兜子(とうし)の生前最後の句集『歳華集』は、昭和50年6月10日、角川書店より出版された。兜子から句集出版の依頼をうけたのは前年の秋だった。序文「焦げたにおい」を司馬遼太郎、跋文「赤尾兜子の世界」を大岡信、別綴じの栞「神荼(しんと)吟遊」を塚本邦雄が執筆。三人とも、兜子がみずから直接に承諾を得ていた。原稿はおおむね期日どおりに入稿し、朱筆の多い著者校も順調に進んだ。
 司馬遼太郎の序文は、大阪外国語学校以来の心友・兜子への深い理解と親愛に充ち、情理をつくしてその作品と人となりについて述べている。
 越後の旅をともにしたときのこと。その往復の時間は、ほとんど俳句論に終始する。兜子の句は、作るよりも発するようであり、「雷電に撃たれるような感覚の発作があるときに、その発作のあとに句が落ちているというような感じであり、そのことが、かれの資質のどのあたりから出るのか、せめてその焦げあとのにおいでも嗅げないかと思った」。
 旅の最後の夜、越後湯沢の宿で、二人で遅い晩めしを食っていると、廊下掃除の係の婦人三人が座に入った。彼女たちが唄をうたいだすと、兜子も和した。やがて掃除婦たちは行ってしまい、二人だけの酒にもどる。そのとき、どうしたはずみか、兜子が急に哭きだした。
 「これは、俳句だと私は理解しようとした。俳句という感情現象が、兜子の中でいま起っているのだと理解するほか、この変な間(ま)の中に居あわせられてしまっている自分が持ちそうになかった。たしかに、ああいうものが兜子の俳句なのであろうと私はいまでもおもっている」。
 「文芸としての俳句の伝統からいえば、およそ異った化学成分のものを兜子は、押しこんで破裂したり感電したりするのもかまわずに、それを押しこんだ。やがて兜子は、俳句という形式に押しこむことによっておこる化学変化や物理変化を美として見つめなおす精神を、伝統の俳句とはべつの場所で確立した。
 その精神の発作について、私はたまたま兜子と酒をのんだおかげで、焦げたにおいだけでも嗅いだような感じもする」。
 文芸における異端と正統についての洞察が、兜子俳句に即しつつ具体的に語られている。兜子の文献資料としても貴重なものである。

 句集刊行とほぼ時を同じくして、昭和50年6月29日、神戸市の生田神社会館で『歳華集』出版祝賀会が盛大に催された。出席者350余名。司馬遼太郎、陳爵臣、梅原猛、小野十三郎、田辺聖子、白川渥、高安国世、安田章生、永田耕衣、榊莫山、須田剋太、多田智満子など、関西の主要な文化人および俳人と、東京の大岡信、吉岡実、高柳重信らが一堂に会する豪華さは、一俳人の祝賀会としては空前絶後のことと思われた。
 後に「渦」の後継主宰となる音楽家恵以夫人のピアノ演奏と独唱が芸術的雰囲気をかもしていた。また、書家でもある兜子自筆の俳句の展示には、その大きさと文字の流麗さとがつよく印象づけられた。
 閉会ちかく、挨拶に立った兜子が、壇上で絶句。会場は水をうったように静まりかえった。私はかたずをのむ思いで「哭く兜子」を見つめていた。
 この祝賀会が契機となって、兜子と司馬遼太郎の対談「空海・芭蕉・子規」(昭51・5「俳句」)が実現したことで、私はこの比類なき作家の人柄に親しくふれることができた。

 兜子は、昭和16年(16歳)、「馬酔木」「火星」に投句、伝統俳句から出発した。戦後は新興俳句の系譜につらなる「太陽系」「群」「薔薇」などに参加、「渦」を創刊主宰し、前衛俳句の旗手とうたわれた。そして、『歳華集』のころにはふたたび伝統俳句へと回帰する。
 ひとりの俳人が、試行錯誤と自問自答の果てに作風の転換をはかることは珍しいことではない。「新しみは俳諧の花」という芭蕉の言葉を実践すべく、兜子は孤立無援の苦闘をつづけ、「第三イメージ」の方法を駆使して、前衛俳句の新境地をひらいた。

     秋来ると鼠がしのび泣けり壁   (『蛇』)
     必中の石つかみ立つ野分中
     鉄階にいる蜘蛛智慧をかがやかす
     音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
     広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
     愛する時獣皮のような苔の埴輪
     ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥  (『虚像』)
     轢死者の直前葡萄透きとおる
     空(から)井戸あり繃帯の鶏水色に
     戦どこかに深夜水のむ嬰児立つ
     ビルの宴彫氷の鳥溶けはじむ    (『歳華集』)
     機関車の底まで月明か 馬盥
     壮年の暁(あけ)白梅の白を験(ため)す
     霧の山中単飛の鳥となりゆくも
     帰り花鶴折るうちに折り殺す
       司馬遼太郎氏に
     先行の人になおあり蝉の空
     子の鼻血プールに交(まじ)り水となる
     みだれ白萩乳を銜(ふく)ます母若し
     薄氷にやどかりのいるささら波
     野蒜摘み八岐(やまた)に別れゆきし日も
     雲とも素(す)ともならぬもずくを煮る男
     鮭ぶち切つて菫ただようわが夕餉
     菜の花の茎浅海に在(あ)るごとし
     数々のものに離れて額の花
     ぬれ髪のまま寝てゆめの通草かな
       われ病む
     空鬱々さくらは白く走るかな
     大雷雨鬱王に会うあさの夢
     葛掘れば荒宅(こうたく)まぼろしの中にあり
     
 兜子は、抽象的な心象風景を詠むときも、日常身辺を句にするときも、あえてみずからを窮地に追いこみ、危うきにあそぼうとする。その果敢さは、ときに痛々しくみえることすらある。
 仔細に読めば、京都大学中国文学科の卒業論文のテーマだった中唐の夭折詩人・李賀(字は長吉<ちょうきつ>791〜817)の詩句がさりげなく句中に詠みこまれ、漢語表現のひき緊まった効果をあげている。
 また、兜子の抽象句も具象句も、一見、些末主義とみえて、けっしてそうではない。兜子は「自作ノート」のなかで、俳句の日常次元を凡庸に表現するだらしなさを嫌っていた、と言い、若さを駆って、イメージの抽象性を考えた、それは具象から出られぬ写生へのアンチテーゼをふくんでいた、と述べている。

 『歳華集』以後の作品は、『赤尾兜子全句集』(昭57・2、立風書房)に「玄玄」として収録されている。『歳華集』の延長線上にありながら、塚本邦雄のいう「非愛誦性」は影をひそめ、自在への志向が窺える。

     みみづくの腋羽にふかむ樅の闇  (『赤尾兜子全句集』)
        われ病む
     はこべらや旧里にとどむ恨(うらみ)なし
     俳句思へば泪(なみだ)わき出づ朝の李花 
     初がすみうしろは灘の縹(はなだ)色
     密息や山の根に浮く春の虹
     ささなみの国の濁酒(どぶろく)酔ひやすし
        湖西鵜川 一句
     赤のまんまけさがけに負ふ石ぼとけ
     わが鬱と塵とどめざる名残空
     短日はさびし来る夜のおそろしき
     心中にひらく雪景また鬼景

 最後の2句は、死後の発表となった「雪中の鳰」15句(昭56・5「俳句研究」)より。

 「俳句」昭和55年8月号の口絵に、赤尾兜子の写真が4枚載っている。神戸市御影の自宅書斎とともに、神戸住吉山手の「うろこの館」でたまたま行きあった東京の大学、短大を卒業したという日航の研修スチュワーデス3人と一緒の写真がある。兜子は黒いポロシャツに白のスーツ姿。撮影は55年6月2日。この年3月、55歳の兜子は毎日新聞社を定年退職していた。「やがてこの三人も、海外線のスチュアーデスに育ち、空を翔ぶであろう。/いまの時代の若者、とりわけ女性は、神戸の街へファッションとおしゃれを求めにくる。/こういうのびやかな街に住みつつ、私はこれからも、ひろく俳句を考え、作らねばならないだろう」(兜子「神戸寸描」)。
 
 兜子は、昭和56年(1981)3月17日、午前8時5分、自宅付近の阪急電車十善寺踏切にて急逝。享年55。存命であれば81歳。早すぎた死といわざるをえないが、俳句の世界は死とともに完結する。死をもって定命とし、あとの評価は作品享受者に委ねる。その潔さが、鬱に悩まされた兜子の莞爾たる笑顔を想起させる。鬱々と空を走る白い桜が、時とともに浄化され、嬉々とした鎮魂の花びらに変身する。涙の谷から歓喜の栄光へ、という比喩が、兜子には似合うようにも思えてくる。衝撃的な死から31年、懐かしさはつのるばかりである。

sakura.jpg
空鬱々さくらは白く走るかな 赤尾兜子

晩年の華 −能村登四郎−

 能村登四郎は、晩年に至るまで、意志的な自己変革によって、作風の変貌をかさねた希有な俳人である。

 『現代俳句大系』第11巻(昭47・7、角川書店)に、登四郎の第二句集『合掌部落』が収録されている。
 登四郎には、それまでに第1句集『咀嚼音(そしゃくおん)』と第2句集『合掌部落(がっしょうぶらく)』の2冊の句集があった。『大系』の企画趣旨と句集収録の依頼状をいっせいに発送したところ、登四郎からの返信に、自分としては『咀嚼音』に愛着があるので、できればそちらを収録してほしい、とあった。私は登四郎に、『大系』編集委員の意見を確かめてみます、と答えたが、社会性俳句の代表的句集として『合掌部落』を収録するという方針は変らず、結局、登四郎も納得した。
 『大系』第11巻の月報に400字5枚の「合掌部落の思い出」を書いてもらった。登四郎は社会主義的イデオロギーを土台とした作品よりも、厳しい風土のなかで必死に生きる人々の生活を詠むことに関心があった。千載一遇ともいうべき合掌部落との出会いについて、ときめきと敬虔な気持とを率直に綴っていた。その原稿はいまも私の手もとにある。

 『合掌部落』は、『咀嚼音』以来の境涯俳句と、「内灘」「合掌部落」「男鹿の冬」「八郎潟干拓田」「囚徒の詩」などの社会問題を素材とした社会性俳句との二つの流れが共存する。
 社会性俳句は昭和35年の安保反対運動の挫折によって大きく退潮した。『合掌部落』はいまや社会性俳句の貴重な実践記録として、昭和俳句史にその名をとどめることとなった。「合掌部落」35句の初出は、「俳句」昭和30年10月号。ときの編集長大野林火は、のちに、「この句稿を抱いてきた登四郎を私は一茶房に誘ったがその頬はかがやいていた。何かを成し得た満足感が感ぜられ、頼もしかったのを覚えている」と記している。

     内灘 日曜日とて射撃なし、炎日眩むがごとし。
   色わかき南瓜這ひをり単線路    登四郎
     金沢はわが父の生れし地。
   汗ばみて加賀強情の血ありけり
     輪島より千枚田へ
   早稲の穂の息づきふかし日本海
     萌子を伴ひて立山に登る
   霧をゆき父子同紺の登山帽
     所謂大家族制と合掌造とで名のある白川村は、御母衣ダム開発のため、
       ここ数年にして湖底に没すといふ。村民反対の中に既に工事すすめり。
       立秋の翌日、ただひとり奥飛騨の峡村をゆく。

   風まぎる萩ほつほつと御母衣(みぼろ)村
   白川村夕霧すでに湖底めく
   暁紅に露の藁屋根合掌す
   優曇華や寂と組まれし父祖の梁
   合掌部落ほろぶ日月の露ふれり

 「暁紅」の句について、のちに登四郎は次のように書いている。
 「私は朝露にびっしょり濡れて森を抜けると、眼の前に三階造りの茅葺き屋根の民家が立っていた。朝の炊煙がほのぼのと洩れていた。私はほとんど戦慄に近い感動で立ちつくした」
 多作家であった登四郎に、『合掌部落』のあと、寡作な時代がおとずれる。「内灘」も「砂川」も、その闘争の期をすぎると白けきったものとなる。『合掌部落』から13年後に出版された『枯野の沖』では、

   火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ    登四郎

という視覚にたよらない、虚実皮膜の間に新しい俳句が生まれてゆく。
 
 登四郎が満齢喜寿を迎えた昭和63年1月、喜寿記念の特別作品77句の寄稿を打診した。原稿依頼は快諾。少し準備期間がほしいということで、「俳句研究」63年7月号に「頽唐(たいとう)」77句が発表された。登四郎は新たな作句法の手ごたえを得たようで、大作の楽しみと効用とを私に語ったことがある。思いもかけぬ発想が湧いたり、旅先で日常身辺の句が浮かんだりすることがある、という。

   去勢後の司馬遷のゐる桃林     (『菊塵』)
   夏掛のみづいろといふ自愛かな
   厠にて国敗れたる日とおもふ
   今思へば皆遠火事のごとくなり

 『能村登四郎読本』を「俳句研究」別冊として富士見書房より刊行したのは平成2年11月だった。『読本』の出た同じ11月に、赤坂プリンスホテルで「沖」創刊20周年記念祝賀会が催された。会が始まる前、登四郎は会場の外へ出て、こんなことを言って私を驚かせた。
 「今度の本は大変よくまとめてくれた。あたしは、これでいつ死んでもよいという気持なのです」

 平成3年8月には、傘寿記念の特別作品「長嘯(ちょうしょう)」80句を「俳句研究」に発表。これは、第11句集の書名となり、句集刊行の翌平成5年、第8回詩歌文学館賞を受賞した。登四郎晩年の艶冶、俳諧無辺、放下の句境と評される世界である。
 
   霜掃きし箒しばらくして倒る    (『長嘯』)
   腹鳴るを若さとおもふ麦の秋
   甚平を着て今にして見ゆるもの
   人の死も蝉の死も皆仰向ける
 
 『読本』初版から10年後の平成12年11月、『増補能村登四郎読本』刊行。巻頭口絵にモノクロ写真一葉。平成12年9月10日、川崎市の長女萌子の家で撮影。吾亦紅や竜胆などの秋草が活けられた床の間を背に正座する登四郎の風貌は、虚飾を拭い去った禅僧のおもむきがあった。俳句には、このように、晩年の美貌を生み出す力が秘められていたのか、と私は畏敬の念を新たにした。
 喜寿と傘寿の特別作品を契機に、『易水』『芒種』『羽化』という晩年の多作時代を迎える。

   月の出の滄浪何を濯ぐべき       (『易水』)
   易水に鳥の屍またぐ凍りをり
   匂ひ艶よき柚子姫と混浴す
   跳ぶ時の内股しろき蟇
   火取虫男の夢は瞑るまで
   ひともがきして凍鶴の凍てを解く    (『芒種』)
   青梅雨や流木に知るものゝ果
   芒種とふこころに播かむ種子もがな   (『羽化』)
   亀鳴くを信じてゐたし死ぬるまで
   月明に我立つ他は箒草
     中村歌右衛門逝く
   行く春を死でしめくくる人ひとり

 平成13年5月24日、永眠。享年90。墓は菩提寺の谷中延寿寺にある。門を入ってすぐの本堂前に小ぶりの句碑が立つ。

   曼珠沙華天のかぎりを青充たす   登四郎

 秋には真紅の花を咲かす曼珠沙華が、緑の葉をのばし、句碑によりそっている。

 登四郎の俳句人生は、作家の成熟とは何か、という問いへの一つの回答となっている。伝統文芸の系譜につらなるという強い自負と信念とが、つねに自己変革を促し、俳句の新しみを追求した。
 登四郎門から多くの新鋭・精鋭が輩出したことも特筆に値する。芭蕉のいう「俳諧に古人なし。われはただ来者を恐る」という謙虚さと、後進の育成は結社主宰の責務という真摯な姿勢が、門弟たちを奮い立たせる。内に秘めた名伯楽の意地が、卓越した指導者と作家とを両立させ、類ない晩年の華を咲かせたのである。

スクリーンショット 2012-02-25 17.33.43
           曼珠沙華天のかぎりを青充たす   登四郎
              能村登四郎句碑 台東区谷中 延寿寺

聡明と温もり −飯島晴子−

 飯島晴子は、農村や山村を訪ね、その生活にふれることを楽しみ、かつ作句の源泉とした。生活感のある平凡な農山村が、自分の俳句を引き出してくれる、と言っていた。
 私のふるさと、山梨県上野原町(現、上野原市)もそういう農山村のひとつである。町内の若い俳人佐々木碩夫(みつお)から、「今夜、飯島さんと仲間たちが泊りこみの句会をします」といわれ、挨拶に行った。この家には、かつて藤田湘子も来たことがあり、句集『白面』(昭44、牧羊社)に「上野原、佐々木碩夫の家に遊ぶ 七句」として嘱目句を収めている。
 大きな掘炬燵のテーブルには、母親手づくりの煮ものや漬けものが山と盛られ、句会前の緊張感と和気藹々の雰囲気を生みだしていた。こまめに仲間の面倒をみる晴子は、佐々木家の生活にとけこんでいた。
 「今夜は、雑誌『俳句』の企画をまとめなければなりませんので、残念ですが失礼します」といって、私は中座した。数日後、晴子から、「先夜はナポレオンを皆でおいしくいただきました。鈴木さんに負けないようにと句会は盛りあがり、深更に及びました」という意味の達筆のハガキをもらった。晴子は筆まめな人だった。
 その後しばらくして、初冬の霧雨模様の夕暮れどきに晴子と碩夫のふたりが、山奥の村阿寺沢からの帰りみちということでわが家に立ち寄った。登山靴にアノラック、小ぶりのリュックサックという晴子の吟行スタイルは、俳壇のパーティーなどで見る華麗な姿とは別の、清楚な印象があった。ちょうど生垣の石を積みかえる工事中で、晴子は老石工の手もとをしばらく眺めていた。阿寺沢には碩夫の親戚があり、その家を案内したのだろう。阿寺沢から碩夫の家までは半端な距離ではない。晴子は当時59歳。健脚はまだ衰えていなかった。
 「わが俳まくら−上野原−」や自句自解などから、上野原での作とわかる句を引く。
   
    恋ともちがふ紅葉の岸をともにして(『八頭』)
    兎の子みんな黒くて夕涼み( 〃 )
    容赦なき夏鶯の近さかな( 〃 )
     甲州軍刀利神社
    軍刀利(ぐんだり)さん涼し涼しと登りけり( 〃 )
    猪の腸(はらわた)あらふ瀬波かな(『寒晴』)
    螢の夜老い放題に老いんとす( 〃 )
    男らの汚れるまへの祭足袋( 〃 )
    北斎の犬目富士いま雪解富士(『平日』)
 
 第一句は、碩夫の案内した阿寺沢での作。谷を覗き込んだ碩夫が、「恋ぞつもりて淵となりぬるとはうまいことを言ったもんだなあ」と呟いた。それを手がかりにして出来た句だという。
 第三句は、彫刻家笹村草家人(本名良紀、東京芸大助教授)の未亡人を山中の一軒屋のアトリエに碩夫と訪ねた折のもの。人間のほうがたじたじするくらい近く、勁い声だった。「近さかな」の断定が快い。草家人は民俗学にも関心がふかく、敗戦まぢかの農村調査の採集記録「甲州山村聞き書き」を『日本民俗誌大系』第11巻(昭51、角川書店)に収めたことがある。また、永田耕衣の講演に草家人への言及があって、驚いた記憶がある。晴子は、草家人作の石像を<露寒の眉目際立つ観魚翁>と詠んでいる。
 晴子の代表句となった六句めは昭和62年、66歳の作。碩夫の案内で見た螢は二、三匹で、初螢という感じだったが、それとは正反対の「老い放題に老いんとす」と居直った句になってしまった、という。また後年、句が出来たとき、本当に老いたならこうは言えないだろうと思った、とも述べた。
 晴子の上野原通いは最晩年まで続いた。手弁当での句会指導は、知られざる種蒔く人の一面である。

 晴子没後、長女後藤素子の許諾のもと『飯島晴子読本』(平13・10、富士見書房)を企画編集した。これは楽しい仕事だった。
 俳句は、第一句集『蕨手』から遺句集『平日』までの7冊を完全収録。散文は、初期以来の厖大な資料を蒐集。随筆、評論、自句自解、俳論抄のジャンルに分類し、各々を編年順に配列した。
 俳句の写実と非写実について、直接聞いたり、俳論として読んだりしたことが、改めて通読すると、すべて腑に落ちて、快い読後感を味わうことができた。生涯を終えた人の偉業を鳥瞰することは、僥倖というほかない。
 
 この『読本』から、私は二冊の単行本をつくった。晴子生前の希望でもあったという『飯島晴子全句集』(平14・6、富士見書房)と、唯一のエッセイ集『葛の花』(平15・7、富士見書房)である。
 『全句集』には、「初期作品」として「馬酔木」昭和35年3月号より40年2月号まで5年間の作品177句を巻末に収めた。第一句集『蕨手』(昭47、鷹俳句会)からはすべて割愛されたものである。「馬酔木」時代の収穫としては、水郷潮来での作、
    枯葦の流速のなか村昏るゝ
の一句のみを愛着句としてあげている。

 『全句集』を通読して、前半のスリリングな句に比し、後半の平明への移行は、私にはやはり感情移入しやすく読める。平明は、老いへの自覚と無縁ではない。

    今頃は桜吹雪の夫の墓(『儚々』)
    白髪の乾く早さよ小鳥来る( 〃 )
    生きて死ぬまで手焙の炭の如( 〃 )
    翔べよ翔べ老人ホームの干布団( 〃 )
       七十五歳の誕生日に
    竹馬に乗つて行かうかこの先は(『平日』)
    気がつけば冥土に水を打つてゐし( 〃 )
    死の如し峰雲の峰かがやくは( 〃 )
    かくつよき門火われにも焚き呉れよ( 〃 )
    端座して雛の吐息聞くとせむ( 〃 )
    葛の花来るなと言つたではないか( 〃 )
    大雪にぽつかりと吾れ八十歳( 〃 )
    ミモザ咲きとりたる歳(とし)のかぶさり来( 〃 )

 これらの句も、一見、平明な写実風でありながら、非写実的二重構造は根底に流れている。
 典型は、思索と実作のなかからしか生まれない。飯島晴子という典型の出現によって、現代俳句は新たな指標を与えられた。晴子による俳句変革は、その後の俳句の潮流を晴子以前と以後とに二分したといってよい。

 エッセイ集『葛の花』は、かねてより愛読していた晴子のエッセイを一冊にまとめておきたいという念願がかなったものだ。
 香気あるエッセイは、それにふさわしい器に盛られなければならない。
 晴子の明晰で聡明なエッセイには、ほのかなユーモアと温もりがある。晴子の愛したあの、山村の炉辺の温もりだ。晴子の文学に底流する温もりが、晴子なきあとも読者を魅了するのである。

           おもかげや生木泡ふく春焚火      赤榴子

スクリーンショット 2012-01-27 14.14.16
                   山梨県上野原

           女の雛をのせる荒瀬をえらみけり    飯島 晴子

    

山河慟哭 −相馬遷子−

   冬麗の微塵となりて去らんとす   相馬 遷子

 相馬遷子が肝臓癌のため67年3か月の生涯を閉じたのは、昭和51年1月19日だった。
 私は、50年11月30日(日)、入院中の佐久総合病院西病棟7階の病室に遷子を見舞った。面会謝絶の病室へよく通してくれたものだと思うが、入口には「面会謝絶」の札が掛かり、遷子はひとりベッドに横たわっていた。その日、国鉄の大規模なストライキのため、交通機関はほとんど麻痺状態だった。
 カーテンの引きはらわれた大きな窓いっぱいに冬枯れの佐久平が広がっている。雪を冠った浅間山と銀色の帯を打ち延べたように光る千曲川。
衰弱の激しさは一目瞭然だった。逡巡する私を気遣うように、遷子はしずかに言う。
 「昨日は福永耕二さんが来てくれました。佐久は、いまごろがいちばんいい季節です。佐久の冬景色を楽しんで帰ってください。
 角川源義さんとは、長い手紙の往復を三度やりとりして、和解しました」
 遷子執筆の「現代俳句月評」の、歯に衣きせぬ源義批判の一文は、当時、俳壇の話題となった。遷子から「不都合ならば書き直してもよい」との電話をもらったが、原文どおり雑誌「俳句」に掲載した。遷子・源義のあいだに、批判と反発と、そして和解のあったことに私は安堵した。詳しい経緯は省くが、結果的には、遷子の厳格な批判精神と、これを是とする源義の寛容が印象づけられることとなった。
 「このように黄疸が出ると、肝臓癌の末期症状なのです。自分では胃癌のことばかり心配していて、肝臓癌だったとは晴天の霹靂でした。取り返しのつかないことになりました」
 遷子は昭和49年4月、胃癌の手術をうけている。開業医として多くの重症患者をみてきた遷子は、冷静に自らの病状を説明した。
 「取り返しがつかない」という言葉がこんなに重く胸に響いたことはなかった。取り返しのつくことで思い煩う愚かさのくりかえしだったことを改めて思う。死という縮命以外に、取り返しのつかぬことなどないことを、遷子は教えてくれた。

 まっしろに乾いた唇に湿らせた脱脂綿をあてながら、柔和な表情を崩さない。
 「食欲のことを医学用語では食思というのですが、食思がなくなったときが人間の最期なのです。犬や猫も、最期には食べものを受けつけなくなる。いのちの最期はみな同じです」

 句集『山河』(昭和51、東京美術)より。

     梅雨深し余命は医書にあきらかに    遷 子
     露燦と諸刃の剣の薬飲む          
     入院す霜のわが家を飽かず見て
     冬青空母より先に逝かんとは
     霜天や食絶ちて死すはいさぎよし
     雪嶺よ日をもて測るわが生よ
     死は深き睡りと思ふ夜木枯
      病急激に悪化し、近き死を覚悟す
     死の床に死病を学ぶ師走かな
     わが山河いまひたすらに枯れゆくか
     わが生死食思にかかる十二月

 間近に迫った死への思いと、絶望の渕での精神的葛藤のなかで、自らの句境を深めていることに驚嘆するばかりだ。死を見つめつつも、無為と空費に終わってしまうのが病者のつねだろう。遷子の強靭な創作心は、精勤と自励とのたえざる句作体験の深化によってもたらされたものだ。
 遷子第一句集『山国』(昭和31、近藤書店)を古書肆で入手したのは学生時代のこと。いまも愛蔵している。『雪嶺』(昭和44、竹頭社)は署名本をいただいた。「俳句」編集担当のころは、細字の万年筆で読後感を記したハガキをことあるごとにもらった。
 積年の感謝の気持ちを述べて、後ろ髪引かれる思いで病室をあとにした。

 1月22日、佐久市野沢の古刹、時宗の開祖一遍上人初開の道場・金台寺での葬儀の霊前には出来あがったばかりの『山河』が供えられていた。
 寒気すさぶ浅間颪が本堂の板戸を鳴らし、遷子を悼む山河慟哭の声とも私にはきこえた。
 『山河』あとがきの最後に、「種々啓発をうけた石田波郷氏の霊に心馳せつつ後記の言葉としたい。/昭和五十年一月」とあるのが、格別こころに沁みる。作品の評価や一身の去就に迷ったとき、亡き波郷に物問うこともあっただろう。遷子が貫いた凛乎たる文学精神は、心友との黙契でもあったように思われる。

 最後に、句集『山河』より愛誦句を引く。

     梅雨めくや人に真青き旅路あり       遷 子
     山中に河原が白しほとゝぎす
     あをあをと星が炎えたり鬼やらひ
     高空は疾き風らしも花林檎
     風に聞く雪解山河の慟哭を
     入りし日が裏よりつゝむ雪の嶺
     百舌鳴くや妻子に秘する一事なし
     夕凍みに青ざめならぶ雪の嶺
     明星の銀ひとつぶや寒夕焼
     地のかぎり耕人耕馬放たれし     

 読みすすむにつれて、こころ澄みゆき、洗心浄化の境地にいる幸福感を味わう。自然諷詠と境涯性という永遠の課題の一つの到達が、遷子俳句の世界であったことを再確認するのである。

       永訣36年
     寒晴れの佐久ぞ恋しき遷子の忌      赤榴子

  スクリーンショット 2012-01-15 18.23.27
             雪嶺の光や風をつらぬきて 相馬遷子
                   新潟県・越後湯沢

「俳句編集ノート」ご入手方法
ご好評につき再版いたしました

本書籍は直販のみとなります。
お問い合わせ・ご注文はお手数ですが、石榴舎(せきりゅうしゃ)まで直接ご連絡ください。
TEL/FAX:03-3394-3909
   
検索フォーム
リンク
QRコード
QR